吉田茂 こりん。 松嶋菜々子、『アメリカに負けなかった男』に吉田茂を支えた元芸者役で出演 「意識したのは“粋”」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

こりん 坂本喜代(松嶋菜々子)|キャスト|アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~|テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ|出演:笑福亭鶴瓶 生田斗真|テレビ東京

吉田茂 こりん

時を同じくして、 世界各国を飛び回っていた白洲次郎(生田斗真)も、世界情勢の機微を敏感に感じとっていた。 白洲と親交の深い吉田は、 娘・和子(新木優子)らが見守る中、戦争回避に向けて動くが、その甲斐も虚しく、日本は第二次世界大戦に踏み切った。 1945年、終戦。 総司令部GHQと向き合う外務大臣のなり手が誰も見つからない中、先の大戦に猛反対し投獄された過去を持つ吉田に、白羽の矢が立つ。 かくして 吉田は、外務大臣として、のちに総理大臣として、日本の独立と復興を担うことになる……。 吉田は白洲を参謀に据え、最高司令官マッカーサーらと必死の交渉をする。 過度な内政干渉など、幾度も緊迫した事態に陥るが、 和子や 麻生太賀吉(矢本悠馬)、 のちに総理大臣となる「吉田学校」の池田勇人(佐々木蔵之介)、佐藤栄作(安田顕)、田中角栄(前野朋哉)、宮澤喜一(勝地涼)らの助け、 内縁の妻こりん(松嶋菜々子)の献身的な支えを受け、日本の独立に向け尽力していく。 政治家・竹内綱の五男だが、実業家の吉田家に養子入りする。 駐英大使だったが第二次世界大戦後に外務大臣に抜擢され、のちに総理大臣(第45、48~51代)となる。 吉田茂が絶大な信頼を寄せる腹心。 イギリス留学して英語が堪能。 実家が倒産してため記者や貿易会社など仕事を転々とするなか吉田と出会う。 元総理・麻生太郎の母親。 自由奔放な父親をもつ反動でしっかり者だが、男勝りは父譲り。 吉田茂の後妻となり身近で支えた。 吉田茂の生前も死後もマスコミに何も語らず死去した。 麻生和子の旦那。 実業家だったが、吉田茂に請われて政治家になる。 素直で明るくて大酒飲み。 大蔵省の官僚で数字に強く、吉田茂から大蔵大臣に抜擢される。 沈着冷静な鉄道省官僚。 岸信介の弟で吉田茂とは遠縁。 池田は高校からのライバル。 国会議員。 農家の出身で中卒。 民主党を離党し、吉田茂から法務政務次官に抜擢される。 大蔵省の官僚。 池田勇人の秘書官の経て政治家に転身し、総理大臣として政治改革に挑む。 色気満点のスーツ姿に次ぐスーツ姿。 バリバリの英語。 やばみ。 色男が過ぎてんよ。 「アメリカに負けなかった男」 — む xxzzxxzzxx0 テレビ東京のスペシャルドラマ アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理吉田茂を見てます。 やっぱり戦中から戦後にかけての政治家や官僚の話しは面白い気骨があって凄いな。 ドラマだから全部実話では無くてもこうゆうドラマから政治や出て来る人物に興味を持ち本を読んだりするきっかけになるから — とくお Ak0ZuoySCi6DTZN テレ東の「アメリカに負けなかった男 吉田茂」。 合成の仕上がりがひどい。 ハンドル回してないのに車が曲がる、、、 — gussan gussan120 いろいろな見方がありますね!.

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【画像】吉田茂を支えた後妻こりん(坂本喜代)とはどんな人物だったのか?

吉田茂 こりん

追悼録(239) 「こりんさんをフォーカスした苦い思い出」 毎日新聞の「近聞遠見」に岩見隆夫記者が神奈川県大磯町の旧吉田邸にふれてこりんさんのことを書いている(5月13日)。 こりんさんは本名が坂本喜代子さんで、吉田茂元首相が夫人雪子さんをなくした後、死ぬまで身の回りの世話をした人である。 3年前の2月、99歳でなくなった。岩見記者を乗せたタクシーの運転手は「きりっとした方でした。無口でしたがね」と語っている。 私がこりんさんと会ったのは、もう50年も以上も前の昭和2 7年夏ごろであったと記憶する。 会ったというより強引に外出する彼女の写真をとっただけである。 こりんさんは当時49歳であったが私にはもっと若く、優雅でおとなしそうな女性に見えた。 社会部のデスクに「大磯へいってこりんさんの写真をとって来い」と指示された。 吉田首相は平和条約交渉のためワシントンへ外遊中であった。 デスクの狙いは大役を果たしている吉田首相を案じ、その帰りを待ちわびるる女性を写真で報道したかったのであろう。 別に質問はしなかった。 カメラマンを連れた大磯に出かけた。 相手が嫌がる写真をとるわけだから愉快な仕事ではない。 社会部記者は「牛のよだれの如く粘れ」と教えられた。 吉田邸に張り込みこと3日目でカメラにその姿をおさめることが出来た。 後味の悪い感じが暫く残った。 もちろん記事になった。 竹久みち著「ふりむかない私」(講談社 に礼儀正しいフリーのカメラマンの話が出てくる。 その人は竹久さんが三越事件で捕まり、拘置所からでてきて以来、自宅の前に張り込んだ。 毎朝決まった時間に来て、玄関のベルを押して、インターフォンで「おはようございます」と挨拶し、昼間は車の中で過ごす。 夕方決まった時間に「帰ります」と挨拶する。 家の前の道路が汚れていると掃除し、家のものが外に出れば挨拶を欠かさない。 近所の人に聞いて竹久さんが薔薇が好きだと知れば薔薇の花を送り、カステラが好きだと判られバカステラを送る。彼は「いい仕事をしようと思えばこれぐらいの気配りは当たり前です」といい、「僕はその場限りの仕事をしたくない。 苦労してもいい写真をとりたいのです」といった。 事件以後竹久さんの写真を真正面から好きなように撮ったのは彼であった。 新聞には締切時間があるにしても「その場限りの仕事」は後味の悪いものである。 ひそかにこりんさんに手を合わせる。 柳 路夫.

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吉田首相

吉田茂 こりん

吉田茂と言えば、 戦後の総理大臣の中で、 日本の復興に大きく寄与した人物として知られています。 吉田茂の 人情あふれる人柄が日本人に愛され、 時には誤解を生むこともありましたが戦後史を語るには欠かせない偉人と言えると思います。 吉田茂と 内縁の妻のこりんとはどうなっていたのか? 制作されたドラマが 再放送に起用されるということは、やはり今でも ただならぬ人気があるのだと思います。 エピソードの多い総理大臣だったのですが、まとめてみたいと思います。 吉田茂の自宅は長谷川町子宅の隣にあった! 現在も放映されている 人気・長寿アニメ番組の『サザエさん』の作者である漫画家の長谷川町子さんの家がたまたま 吉田茂さん宅の隣だったのです。 吉田茂さんは「 わしのうちの隣はサザエさんの家だ」とよく言っていたとのこと。 「サザエさん」の著者の長谷川町子の家が、吉田茂の家の隣だったが、吉田茂は「わしの隣はサザエさんの家だよ」と人々に言っていたそうだ。 漫画を好きで、よくい見ているらしい、そういう人物らしかった。 (長谷川町子さんは、後年 紫綬褒章(1982)勲四等宝冠章(1992)国民栄誉賞(1992)を受章します) 吉田茂が防衛大学校第一期生に対する訓示が泣ける! 戦後に防衛大学校が開校され、 自衛隊が軍隊なのか?憲法違反ではないか?などの騒動のさなかに 第一期生が卒業します。 その卒業生に対し、吉田茂さんが訓示をしたのですが、これが泣かせるのですね! 君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかも知れない。 非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 ご苦労なことだと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 どうか、耐えてもらいたい。 自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。 しっかり頼むよ。 自衛隊の将来について、そして将来、 若き自衛隊がどんな立場に置かれるであろうかということを深く考えて、自衛官の将来のことを思い図っての訓示だと思います。 内容として、誠にその通りであり、 泣かせる名文句ですね!!! 吉田茂とマッカーサーとのやりとりが凄かった! 吉田茂さんは、敗戦後の日本の外務大臣だったのですが、当時の総理大臣である鈴木貫太郎に助言を求めこういわれたというのです。 戦争は、勝ちっぷりも良くなくてはいけないが、負けっぷりも良くないといけない」 吉田茂さんは「 言うべきことは言うが、あとは潔く従う」という態度を取りますが、これがGHQ(=占領軍司令部)には評判が悪かったと言います。 「 敗戦国の代表者なのに、ずいぶん偉そうに…」そう思われていたのかもしれません。 このとき、吉田茂さんは敢然と反論し、 権力に左右されるような政治家は、また別の権力が現れた場合には、意気地なくこれになびくものだ と答えたと言います。 戦後の日本は、もう混乱でどうしようもなく、ワンマンと言われようが、 誰かが強引にでも音頭を取らないと、にっちもさっちも行かない状態だったのだと想像できます。 やや強引な手法だったのかもしれませんが、吉田茂さんが、 自分が「これだ!」と信じた方向をドンドンと進めて行ったからからこそ、 復興も早かったのかもしれません。 吉田茂の鮮やかな切り替えしの論法 吉田茂さんは、政治学科卒ですが、辣腕弁護士のように 切り返しも鮮やかだったということが知られています。 ある時、吉田さんがマッカーサーに食上事情が悪いことを政府統計をもとに示し、食糧輸入をアメリカに働きかけたことがあります。 マッカーサーはこの資料を逆手に取り「 日本の数字はずさんだ!」と言い張ります。 (まあ、かなり水増しなどがあったのかもしれませんが…) すると、吉田茂さんは毅然として切り返します。 戦前にわが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、もし完備していたら、勝っていたかもしれない こういわれると、 アメリカもある程度は折れざるを得なかったかもしれませんね。 さすがの手腕、と唸らざるを得ません! 吉田茂のけっこうな高調子の返答もある 吉田茂さんが、記者たちに囲まれて取材を受ける(今日でいうところの『囲み』取材、ぶら下がりなどにあたると思います)機会はたくさんあったと思います。 ある時、記者から「 顔色がずいぶん良いようですが、何を召し上がっておられるのですか?」と聞かれたときのこと。 吉田さんは即座に「 人を喰っている(=人を小ばかにしたような態度、尊大・ずうずうしい態度などをいう)んだよ」と答えて記者たちをあきれさせたとか。 また、1916年に寺内正毅が首相になったときに、吉田茂さんが就任のあいさつに出向きました。 寺内首相が「 どうだ吉田、総理大臣の秘書官をやらんか?」と水を向けられたときに、吉田さんがすぐ返答します。 秘書なんて、とてもとても。 総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうもありません ある種、 大胆不敵、そして憎まれない吉田茂元首相の人柄を示すエピソードだと思います。 吉田茂と妻のこりんについて 吉田茂を検索していると『 こりん』というキーワードが出てきます。 これは、小倉優子さんのことではなくて…(笑)、 吉田茂さんの内縁の妻の名前になります。 吉田茂さんは、妻の吉田雪子さんに 早々と先立たれてしまいます。 花柳流の名取として、 芸者としても活躍していた坂本喜代子さんが『こりん』さんで、雪子さんの死後はしばらく、内縁扱いだったのですが、 数年後に再婚されます。 義父の莫大な資産を引き継いだ吉田茂さんは、 花柳界でその資産を豪快に使いまくっていたというので驚かされます。 吉田茂さんとこりんさんとの間には 子供はいなかったようですので、こりんさんの画像なども残されていないようです。 父親が、反政府分子として 長崎で逮捕された直後のことで、詳細は不明であり、また 実母の身元も良く解っていないようです。 実母は、父の投獄後に 高知県宿毛市から上京し、父の親友であった吉田健三氏の元に身を寄せていたと記されています。 1881年(明治14年 茂が3歳のとき)に 吉田健三の養子となります。 養父 吉田健三氏が 1889年(茂が11歳のとき)に死去したため、茂さんは 吉田家の莫大な遺産を相続することとなります。 明治27年に16歳で、 今日の義務教育にあたるカリキュラムを終え、そこから 約10年間は、あちこちの学校に籍を置くことになります。 1894年 16歳時 日本中学(のちの日本学園)に1年在籍 1895年 17歳時 高等商業(のちの一橋大学)に入学するも2カ月で退学 1896年 18歳時 正則尋常中学校(のちの正則高等学校)卒業 この年に慶應義塾・東京物理学校(のちの東京理科大学)にも籍を置くが中退 1897年 19歳時 学習院に入学 1901年 23歳時 旧制の学習院高等学科(のちの学習院高等科)を卒業 学習院大学科に入学するも大学科が閉鎖となる 1904年 26歳時 東京帝国大学法科大学に移る 1906年 28歳時 東京帝国大学政治学科を卒業 ( 学習院大学から、東大法学部へって、そんなのありなの? 現在では、 そんな編入学みたいなのは絶対無理、ということだと思います。 ところが、当時はそれが出来たようでして、 作家の三島由紀夫さんなども、学習院から東大に入学したことになっています!) 卒後は外務省に入省されまして、 外務官僚として勤めながら実績を積み、 政界に転身して総理大臣まで上り詰めます。 まとめ 吉田茂元首相について書いてきました。 多くの 人をうならせるような名言を残されています。 戦後の アメリカとの駆け引きに重要な役割を果たされました。 養父の 莫大な資産を引き継ぎ、豪快な言動がありました。 妻 雪子さんに早く先立たれ、 芸者だった坂本喜代子さんと再婚します。 日本の戦後復興に欠くことができない人物で、 国民に愛されていました。

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