武田 神社。 武田神社 口コミ・写真・地図・情報

武田氏館〜茨城県ひたちなか市〜

武田 神社

武田信玄に代表される武田氏は甲斐国(山梨)のイメージが強いですが、その発祥は常陸国、現在の茨城県ひたちなか市武田。 平安時代、源義光(源義家の弟)の三男である源義清が、この地を領有して武田氏を名乗ったのが、武田氏の始まりだと考えられています。 そして源義清と、その息子である清光は勢力を拡大しようとし、在地勢力と争いますが、朝廷に訴えられ甲斐(山梨県)に配流。 そして甲斐で再び勢力を拡大したほか、子孫は安芸や若狭にも守護として勢力を確保しました。 さて、かつての武田氏館は那珂川を見下ろす武田台地の突端にあったと考えられます。 この復元された武田氏館は、竹下元総理による「ふるさと創生事業」により、往時の位置の近くへ建設したもの。 鎌倉時代の地方豪族の館を参考にした主殿造で、主殿を中心に、左右にそれぞれ厩や納屋を配しています。 このように復元であっても、中世の武士の屋敷を見られる例は、岩手県奥州市江刺区の「えさし藤原の郷」など数少ないので、非常に貴重な素材です。 特色としては、主人や家族が住んだ主殿内部は、柱だけで間仕切りが無いこと。 必要に応じて、几張(きちょう)や衝立(ついたて)を使って、簡易的に部屋を分割して使用しました。 なお、復元された主殿は防火の観点から、わら葺き風の銅版葺き屋根ですが、本来は藁葺き屋根です。 一方、武田氏館の目の前に建つのが湫尾(ぬまお)神社。 武田郷の鎮守武田大明神とも称され、社殿は1648(慶安元)年に建てられたもの。 茅葺屋根の拝殿が歴史を感じさせてくれます。 撮影&解説:裏辺金好).

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武田神社

武田 神社

拝殿(2014年5月8日撮影) 躑躅ヶ崎館と武田城下町 [ ] 所在する甲府市古府中町は北縁に所在する。 戦国時代の永正16年()に甲斐守護・により居館(、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。 以来信虎・(信玄)・三代にわたって武田領国の中心地として機能し10年()3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。 豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たにが築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。 館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられている。 これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収される。 江戸時代に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶのひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。 明治初期の「機山公霊社」建設運動 [ ] (明治5年)6月、明治新政府はに際して武田時代の遺制とされるの廃止を断行し、これに対して峡東地域の諸村が蜂起し、が発生する。 大小切騒動は鎮圧されるが、首謀者の多くは処罰され、山梨県令・の主導する県政にも影響を及ぼした。 大小切騒動の後に山梨県庁は山梨県民の武田信玄への追慕を障害と認識し、明治初年には『』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。 このころ全国的にもが興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。 明治政府はこれに対して地域の偉人を崇拝する感情を尊重する方針に転換し、山梨県では(明治13年)6月にはの東山道が行われ、同年6月17日から6月22日にかけてが行われた。 山梨県巡幸では巡幸御用掛から武田信玄ゆかりの社寺の調査・保存のために保存金を下賜された。 その意図は大小切騒動で消沈した山梨県民に対し、武田信玄に対する心情を回復することで、新政府への帰属意識を増幅させるものであったという。 山梨県では県令藤村の相談役でもある頭取のを中心に、、、ら民権運動家が霊社建設に賛同し、古城地の公園化と「機山公霊社」建設運動が起こる。 山梨県では古城地の官有地払い下げを行い公有地化を進めるが、民権運動家でもら巨額の費用を投じた霊社建設に否定的な意見も上がり、躑躅ヶ崎館は県立躑躅ヶ崎公園となり、霊社建設は一時棚上げされた。 なお、県立躑躅ヶ崎公園は当時、現在の甲府市太田町に所在する太田町公園()に次ぐ二例目の県立公園であった。 武田神社の創建 [ ] (明治32年)には信玄祭祀神社建設運動が再燃し、『』によれば同年5月24日には県内の有志が5万円、県外の関係者から5万円の計10万円の募金計画が起こり、山梨県知事のがこれに賛同したことを報じている。 同年6月20日には甲府市太田町の望仙閣において武田神社建設協議会が開催され、小野田知事のほか栗原信近、、、、、、加賀美嘉兵衛らが出席し、発起人には、、、らが名を連ねた。 こうして山梨県内外の政財界有志により「武田会」が結成され、神社創建運動が再燃する。 小野田元熈 (明治37年)の後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励され、と評される武田信玄を祀った神社創建の機運が高まった。 (明治39年)には甲府でが開催され、この時は山梨県知事・の夫人を発起人代表として義金が募られており、このころには「武田会」は会としての実態を失っていたと考えられている。 また、武田信玄は『』に記される父親の信虎を追放した親不孝な人物とする評価が存在していたが、明治国家では「忠孝」が重視されていたため、明治後期に山梨県の郷土史家の間ではそれを覆す信玄の事跡発掘が行われ、明治37年の内藤慶助『武田信玄事跡考』、大正4年の『甲斐史』など武田氏研究にも影響を与えた。 (4年)、の即位記念にに従三位が追贈されたのを契機に、1916年(大正5年)には山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立される。 (大正8年)には社殿が竣工し、信玄のにあたるには初の例祭が行われた。 への昇格運動はを祀ったが指定されていたことへの対抗意識も加え、郷土史家はが昇格条件に求める勤皇事跡の発掘に務めた。 4月12日に行われていた例大祭には神輿の後に地元相川住民によるを模した騎馬行列が行われており、(22年)からは甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせていた。 戦後には業振興により武田信玄が歴史的観光資源として着目され、(昭和41年)からは甲府信玄祭りが開催され、以来は行政主導によるとしてのが4月12日前の土日に開催されており、地域住民による例祭と共存している。 境内にある宝物殿(入場は有料)には、太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇、武田二十四将図等、武田家ゆかりの貴重な品々が収められている。 武田神社(中央)と(竜華池、右) を基に作成 文化財 [ ] 重要文化財(国指定)• 太刀 銘一(吉岡一文字) に伝来した。 (明治13年)6月にが行われ、に供奉して来県したのが、信玄正室のがの出自であることに知り、寄進したもの。 翌明治14年に正式に奉納された。 鎌倉時代末期から南北朝時代の制作。 長さ64. 5センチメートル、反り2. (大正6年)に武田神社が創建されるまでは()のに保管されており、創建の際にとなる。 備前派の作つ伝わる。 銘は「一」と刻するのみで、刀工の個名は不明である。 関連文化財• 明治初期の県令の推進したである睦沢(むつざわ)小学校校舎。 に隣接する(現)から西曲輪に移築されたが、10月に再開発中の北口広場に再び移転された。 交通 [ ]• 北口2番のりばより「武田神社」行きまたは「積翠寺」行きに乗車し、「武田神社」バス停下車。 ギャラリー [ ]• 秋山(2006)、p. 秋山(2006)、p. 有泉(2005)、p. 750• 秋山(2006)、p. 有泉(2005)、p. 750• 秋山(2006)、p. 有泉(2005)、p. 750• 有泉(2005)、p. 750• 秋山(2006)、p. 秋山(2006)、p. 秋山(2006)、p. 有泉(2005)、p. 751• 秋山(2006)、p. 有泉(2005)、p. 751• 有泉(2005)、p. 751• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 『山梨の名宝』、p. 130• 甲斐保勝協会編『甲斐勝景写真帳』昭和初期の「武田神社」昭和7年(1932年)発行、国立国会図書館蔵書、平成29年10月21日閲覧 参考文献 [ ]• 「文化財の保護」『山梨県史 通史編5 近現代1』山梨県、2005年• 「明治時代における武田氏館跡保存問題」『山梨県史研究 第14号』山梨県教育委員会、2006年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ] オープンストリートマップに があります。 - NHK.

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武田神社周辺の観光 5選 【トリップアドバイザー】

武田 神社

国指定史跡武田氏館跡 別名躑躅ヶ崎館跡と呼ばれる史跡武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎によって築かれ、信玄・勝頼と武田三代の本拠地として使用されました。 二町(200m)四方の規模を誇る主郭部は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であり、武田氏の勢力拡大に伴い、曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設されていきましt。 天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したため、武田氏館は一時機能を失います。 しかし、翌年武田氏が滅亡すると、織田氏・徳川氏・豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、その後甲府城が築城されるまで使用されていたと考えられます。 館の正面玄関にあたる大手には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が確認されています。 整備前の発掘調査によって、武田氏滅亡後に築かれた石塁などとともに新たに造営された曲輪であることが明らかになりました。 発掘された武田氏館大手 大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。 曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。 土橋から館跡へ向かって進むと、武田氏館の正面玄関である大手土橋の前に武田氏滅亡後に築かれた石塁が存在しています。 石塁直下には三日月堀など武田氏時代の生活面が確認されているため、現在大手東側でみられる施設は、武田氏滅亡後に甲斐を支配した新たな領主によって大きく造り直されたと考えられます。 武田氏館跡は戦国大名武田氏の本拠地であるとともに、その後の勢力による甲斐国統治としての側面もあります。 その意味で戦国の動乱期から天下統一へ向かう歴史全体の動きを知る上で貴重な史跡です。 (看板資料より) 史跡武田氏館跡大手門周辺ゾーン 武田氏館跡は、戦国大名武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の本拠として築かれた一辺が約200mの正方形をした居館であり、東に位置する躑躅ヶ崎と呼ばれる尾根の麓にあることから、一般には「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。 武田信虎によって永正16(1519)年に築かれた初期の館は、現在武田神社が鎮座する主郭のみであったと考えられ、堀や土塁の規模も現在の半分程度であったことが発掘調査で明らかになっている。 館の規模が現在のようになったのは、武田領国を中部一帯に拡大した武田信玄の時代と考えられ、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪等が増設された。 ここ大手周辺ゾーンは、戦国時代の館の正面玄関に当たり、武田信玄を始め、多くの武将・文化人が通った道である。 (南側の水路を渡る入口は、大正時代の武田神社創建時に参道として切り開かれた道である) 当地区の整備工事前に実施した発掘調査では、大手門一帯を囲むように儲けられた堀や土塁、出入口の石階段などが確認され、主郭に至る土橋の正面からは、大手石塁や厩とみられる建物跡が検出された。 同時に大手石塁の下層からは、武田氏時代の遺構である三日月堀と呼ばれる出入口を守る施設が新たに発見されると共に、家臣や職人の屋敷とみられる区画も確認されたことから、武田氏の時代には城下町が展開していたことが明らかになった。 当ゾーンにおいては、様々な議論の末、遺構として最上部に現存する土塁・石塁も、館の歴史的な変遷を知る上では重要な施設であると位置づけられたため、武田氏滅亡後に付設された曲輪内の構造をより明確にする方針で整備を行った。 (看板資料より) 大手石塁 大手門を守るための櫓や塀などの建物の基礎と考えられ、中央と南側の2箇所に階段が設けられている。 発掘調査では、東側と南側の石積が良好な状態で出土したが、西側は基底部の石のみ、北側においては完全に消滅していた。 そのため本整備においては発掘遺構に加え古絵図などを基に石の積直し・復元を行った。 (看板資料より) 大手石塁 武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構造物です。 二箇所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの建造物が存在したと考えられます。 石垣は自然石を横方向に配置することを意識して積み上げた野面積みと呼ばれる技法で積まれており、裏側には石垣の安定と排水を意図した無数の栗石が詰め込まれています。 主に安山岩が使用されていますが、花崗岩まども混在することから、近隣で産出する石材から集められたと考えられます。 石材には矢穴などの加工の痕跡はなく、自然石がそのまま使用されているのも特徴の一つです。 このような栗石有する石積みの技術は、戦国時代の甲斐には存在しなかったものであり、西日本から導入されたと考えられます。 そのため、大手石塁は、武田氏滅亡後の甲斐を治めた徳川氏か豊臣氏配下の大名によって新たに築かれた可能性が高いと考えられます。 発掘調査当初は、石垣東面以外の多くは後世の開発により失われていましたが、古絵図なども参考にして欠損箇所は積み足し、破損・劣化が著しい箇所は解体修理して往時の姿に復元しました。 (看板資料より) 大手石塁と三日月堀 武田氏館の正面玄関にあたる大手正面には、館の出入口である虎口を守るために築かれた石塁が存在します。 石塁は石積みの技法などから武田氏滅亡後に築かれたものと考えられます。 また、石塁の直下からは新たに三日月堀が発見されました。 三日月堀は、丸馬出と呼ばれる館の出入口を守る施設の一部であり、内側に土塁を伴っている場合が多いようです。 丸馬出は武田氏領国内で積極的に用いた施設と考えられています。 山梨県内では新府城に続き2例目となりました。 このように武田氏時代の遺構とその後の勢力によって築かれた遺構が重なり合って発見されています。 (看板資料より) 大手三日月堀 武田氏滅亡後に築かれた大手石塁と重複する位置から三日月堀と呼ばれる半月形の堀跡が確認されています。 、三日月堀は、丸馬出と呼ばれる城館の出入口を守る施設の一部として築かれたもので、本来は内側に土塁を伴っていたと思われます。 丸馬出は、武田氏が支配した長野県や静岡県、群馬県北西部などの城郭に数多く存在することから、武田氏が用いた築城技法の一つと考えられています。 図示した大手三日月堀の範囲は、北側を除き部分的な確認調査の成果をもとに全体規模を想定しています。 南側については、大手石塁と重複しているために未調査となっていますが、三日月堀の埋め立て不十分であったため発生した地盤沈下による石垣の崩落が石塁東面で確認されています。 よって、大手三日月堀の規模は、全長約30m、堀幅約4m、深さは確認された範囲で約2mでした。 大手石塁の下層に埋もれていたこともあり、古絵図や文献にも記録されず、発掘調査以前はsの存在を確認することはできませんでした。 発掘調査の結果、大手三日月堀は、武田氏から徳川氏・豊臣氏への領主交代によって人為的に埋め戻され、破却されたと考えられます。 (看板資料より) 惣堀・土塁 武田氏館跡東側一帯を囲い込むように伸びる堀と土塁を総称して惣堀・土塁と呼んでいる。 大手石塁の周辺には整備前から土塁が残されており、土橋に挟まれた場所は、一時宅地化された際に破壊されたことが明らかになった。 本整備においては、発掘調査で確認された基底部の遺構を基に土塁の形態を復元した。 (看板資料より) 土塁・惣堀の復元 武田氏館跡東側一帯には、北郭から大手に向かって南北方向に伸びる堀と土塁がある。 堀跡は場所によりいくつかの呼称があるが、現在は総称して惣堀と呼ぶ。 惣堀には土塁が設けられており、この一帯の古字名が「高塀」と呼ばれる由縁となったと考えられる。 整備前の発掘調査からは、江戸時代以降の水田開発や宅地開発により土塁が徐々に切り崩された形跡が確認でき、わずかに残された痕跡を基に復元整備を行った。 土橋に挟まれた本地点周辺では、切り崩された土塁の盛土が確認されるとともに、土塁基底部の土留めとして用いられた石積みが大手側・惣堀側の両方に確認されたことから、往時の土塁規模を推定することが可能となり、現在のような姿として整備を行った。 (看板資料より) 惣堀北側虎口 武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が形成されたことが明らかとなっています。 惣堀には整備前から古道である鍛冶古路に面して南北2箇所の土橋が架けられていました。 土橋は、貞享3(1686)年の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前記にはすでに存在していたようです。 発掘調査以前は、鍛冶小路側から土橋をわたると通路は途絶えていましたが、調査を進めると、石を配した階段が発見されました。 石階段は全体を粘度混じりの礫石で覆われた状態で発見されているので、自然堆積によって埋まったものではなく、曲輪の機能が停止した段階で人為的に封じ込まれたと考えられます。 約400年の時を経て姿を現した戦国時代のこの階段は、南北両端が後世の開発等により破壊されていますが、大手東側に築かれた曲輪の虎口と考えられ、その規模は全長約2. 2m、幅約6. 2mを計ります。 虎口の門につきましては、水路などによる後世の開削が著しく、礎石など門の存在を裏付ける痕跡を確認することはできませんでしたが、比較的良好な状態で残されていた階段下の広場では確認されませんでした。 門は階段上に存在した可能性が高いと考えられます。 整備事業では戦国時代の石階段は保護するために埋設し、その上に同じような形で復元しています。 (看板資料より) 土橋・虎口石階段 惣堀には古道である鍛冶小路から入る2箇所の虎口(出入口)が確認されている。 大手石塁の北段では、土橋を渡った場所から石階段が発掘されたため、遺構に基づき修理・復元を行った。 一方、南段では、発掘調査で細い土橋が確認され、やや狭い虎口であったことが確認された。 (看板資料より) 厩跡平面表示 武田氏館跡の大手門を守備するために築かれた大手石塁の南側で発掘された建物跡は、地面に柱を埋めて建てられた堀立柱建物跡である。 建物中央に位置する3基の長方形の柱穴からは、柱を据えるための礎板が出土し、これまで武田氏館跡の調査事例でも類例がなく、柱配置も戦国時代では特殊な間隔が採用されている。 建物の用途は、その特殊な柱間から江戸時代に成立した『匠明』に記された「厩」の建物形式に類似し、甲州市恵林寺所蔵の「甲州古城勝頼以前図」にも、現在地付近に「御厩」の表記があることと合わせて、外厩と考えられる。 時代的には大手石塁の東端部延長線上に計画的に建てられたと考えられることから、武田氏滅亡後に存在した厩であると推測される。 (看板資料より) 厩橋 大手石塁のすぐ脇から特殊な柱配置の堀立柱建物跡が発見された。 平面で表示した堀立柱建物跡は、江戸時代の建築書に記された厩建物の形式と類似し、古絵図にもこの付近に「御厩」の存在を示す表記がみられることから、厩跡として推定し整備を行っている。 (看板資料より) 【御祭神】 武田晴信命(信玄公) 【鎮座地】 山梨県甲府市古府中町2-611 御祭神在世中の居館、躑躅ヶ崎館跡 【由緒】 武田晴信公は清和源氏新羅三郎源義光公の後裔で、大永元(1521)年11月3日、武田信虎公の長男として石水寺要害城に生まれました。 幼名を太郎、童名を勝千代と名乗り、天文5(1536)年3月に元服し、将軍足利義晴から「晴」の一字を賜り晴信といい、従五位下大膳大夫に叙されました。 天文10(1541)年信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以降30有余年領国の経営に力を尽くされました。 天正元(1573)年4月12日、天下統一の夢を抱き京に上る途中、信州伊那駒場で病没されました。 (行年53歳) 大正4(1915)年大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正8(1919)年4月12日、鎮座祭が盛大に齋行されました。 【例祭】 4月12日(御祭神御命日) 祭典終了後、神輿渡御が行われ、甲冑に身を固めた武田二十四将の騎馬が神輿に供奉し、豪華かつ勇壮な神輿の列が桜花の咲く中、甲府市内に繰り広げられ賑わいを見せております。 (看板資料より) 武田神社本殿 要害城の眼下に広がる館の東側に延びる尾根にはツツジの花が咲き乱れ、信玄が遊覧のため亭を造ったという。 今はその面影はないがこれにちなんで館は躑躅ヶ崎館と呼ばれる。 この館は国史跡で保存整備が進められている。 主郭部内の東・中郭の方形の部分が当初設けられた館に相当する。 南正面の木橋は本来なく、東の土橋が大手口であった。 大手の東側には小高い馬出土塁の痕跡が残る。 大手を入ると右手に宝物館、ついで信玄を祀る武田神社が南面して並ぶ。 東・中曲輪の境の土塁・石塁は大正7年8月の神社建設時に取り払われ、左の南半分は平地になっているが、平成7年の調査で中曲輪南部から庭園状遺構が発見されている。 周囲の土塁北西隅には石垣が積上げられ、天守台と呼ばれているが、武田氏滅亡後の築造と考えられる。 なお、出入口は大手以外に北と西に堀を横断する土橋が設けられ、それぞれ御隠居曲輪・西曲輪よ結ぶ。 西曲輪は東・中曲輪の西に位置し、土橋で結ばれて南北に長い。 増設時期は天文20(1551)年の信玄の嫡子義信婚姻時ともいうが、明らかではない。 南・北に枡形虎口が設けられ、北は土橋で堀を渡り、南は堀幅が狭められているから木橋が架設されていたと思われる。 西曲輪から枡形虎口を通って北に進むと、東から1メートルほどの高さの馬出土塁が東から延び。 その北に土塁に囲まれてほぼ正方形に味噌曲輪が広がり、御隠居曲輪は信虎の妻大井夫人の隠居所と伝え、もう一つは曲輪名が伝えられていない。 西曲輪の南に位置する梅翁曲輪は東半分が失われているが、西・南部には今も水堀・土塁をめぐらせている。 時期的にはこの曲輪が最も新しく、武田氏滅亡後の平岩親吉時代に増設されたものという。 このように躑躅ヶ崎館は最初方形の単郭で始まり、その後次第に曲輪が増設されて戦国大名の居館として相応しい規模を保持し、武田三代のみならず、武田氏滅亡後も文禄・慶長年間に甲府城が建設されるまで、甲斐の治所としての役割を担うのである。 (『武田信玄を歩く:秋山敬』より) 菱和殿 甲陽武能殿 武田氏館跡は大きく分けると東・中曲和と西曲輪からなります。 東・中曲輪は現在一つの曲輪となり武田神社が鎮座し国の史跡として整備されています。 大手門の外側の馬出しも整備されていました。 一方、西曲輪は甲府市で整備されているとのことでした。 以前あった藤村記念館は甲府駅北口広場に移設されたとのことで今は存在しません。 武田神社には今まで何度も訪れていますが西曲輪の奥の方まではあまり行った ことがなかったので今回足を踏み入れてみました。 北側は枡形虎口の復元や門跡の調査などが進められていました。 また、本曲輪と西曲輪の間の堀も確認しましたが、武田神社の南側の様子からは信じられないほどの荒々しさをを感じました。 武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口 土塁で囲まれ、門で仕切られた空間が一升枡の形をしています。 2箇所の門も意図的に位置を変えて敵の侵入の勢いを削ぐ形態になっています。 西曲輪は、武田信玄の長男であった武田義信と駿河の今川義元の娘との結婚に合わせて天文20(1551)年に新造された義信の居館です。 義信は謀反の罪に問われ、東光寺で自害したため、西曲輪のその後の利用は明らかになっていません。 現在地は西曲輪の北側に位置し、枡形虎口と呼ばれる出入口の構造が残されています。 虎口とは城館の出入口のことを指し、門と土塁で仕切られた広場の形が一升枡のように四角いことから、枡形虎口と呼ばれています。 、枡形虎口には2箇所に門が設けられており、石垣のある通路部分の発掘調査で礎石を確認しています。 現状では、武田氏滅亡後に石垣が設けられておりますが、枡形虎口は武田氏の築城技術を代表する構造とされています。 (看板資料より) 武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口南門 西曲輪の内側に位置する南門は、北門に比べて土塁先端部分の石垣や間口の規模が大きく、門の構造自体も違っていたと考えられます。 石垣は、野面積みと呼ばれる自然石をそのまま積上げる技法で積まれており、背面には栗石と呼ばれる礎石が使用されています。 このような石垣の技術は、西日本から導入されたものであり、現在見られる石垣は武田氏滅亡後に設けられたものと考えられます。 その石垣と重複する位置から発掘調査で門跡の礎石が6枚確認されています。 石垣よりも古い時代であり、武田氏の時代に存在した門の可能性が高いと考えられています。 礎石から推測される門の規模は、幅約3. 3メートル、奥行き約3. 8メートルであり、土塁の高さと西側の階段の存在を考慮すると、櫓構造の門であったと考えられます。 (看板資料より) 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡) 「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16(1519)年に石和からこの地に館を移したことから始まります。 その後、信玄、勝頼と、武田家当主の館として使われました。 そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたりこの館一帯は領国の政治、経済と文化の中心地として発展しました。 館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。 館の回りには、家臣の屋敷が建てられ南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。 この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠地として第一級の規模と質を誇るものです。 (看板資料より) 奇木『三葉の松』 この三葉の松は信玄公が信仰致しておりました高野山より、公を慕ってこの地に種子が飛来落種し、今日に至ると伝えられております。 三葉の松は全国でも珍しく、黄金色になり落葉することから金運の御利益があると言われております。 またそもそも松は古来より「延命長寿」の縁起もあり、この松葉を身に付ける事により御利益を戴き、招福必来と言われております。 (看板資料より) 宝物殿にて風林火山の旗を特別展示していました。 風林火山の旗は以前で聞いたときの話では、雲峰寺に4つ、恵林寺に1つ、民間人が1つもっているということであり、武田神社に風林火山の旗があるという話は聞いていませんでしたので宝物殿の受付の人に聞いてみました。 彼女の話では最近どこからか奉納されたものとのことでした。 民間人が武田神社に寄付したのでしょうか? 念のため別の場所でも風林火山の旗について聞いてみましたがそこでは、風林火山の旗は以前から武田神社にあったものを今回特別展示しているとのことでした。 出所が不明の風林火山の旗でしたが、雲峰寺や恵林寺のものよりかなり古めかしいものでした。 信玄公御使用井戸 姫の井戸のお水.

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