平尾 誠二 死因。 【まとめよう】(画像)平尾誠二氏(ひらおせいじ)死去 死因・病気は?【ラグビー元日本代表監督】|フレンズちゃんねる

平尾誠二氏が亡くなりましたが、何故死因は非公表?

平尾 誠二 死因

闘病生活が続いていて、最近は痩せていて、心配の声も多かったようです。 平尾誠二さんの病気は公表はされていないものの、噂では胆管癌といわれていいます。 胆管癌には現在、有効な治療法が乏しく、予後が悪い癌だということです。 初期症状がないので、発見は健康診断などで偶然見つかるんだとか。 早期発見できれば切除など治療できても、進行してから発見されると厳しい病気です。 平尾誠二さんは、2015年ワールドカップ直前に一時入院するなど倒れたようなので、癌がだいぶ進行した状態で発見されたと推測されます。 当時、激やせした姿が心配されました。 それでも平尾誠二さんは今年4月に異業種交流会で240人を相手に「ラグビーに学ぶ、リーダーシップと強い組織作り」と題して講演するなど、最後まで「ミスターラグビー」でした。 卓越したプレーと端正な顔立ちから「ミスターラグビー」と呼ばれました。 中学時代にラグビーを始め、高校時代は京都市立伏見工業高校のキャプテンとして、チーム初優勝をけん引。 同志社大学在学中には、史上初の大学選手権3連覇に貢献 社会人ラグビー神戸製鋼時代には、日本選手権7連覇を達成するなど、まさに日本ラグビー界のパイオニア的存在でした。 また、現役引退後は日本代表監督や神戸製鋼ラグビー部の総監督兼ゼネラルマネージャーとしてチームの運営に当たっていました。 エリート街道をまっしぐらで、高校でも大学でも社会人でも、すべて全国優勝。 しかも7連覇、3連覇! スタンドオフという司令塔のポジションで、華麗なステップで「ラグビーとはこういうスポーツなのか」と知らしめた存在でした。 大変ダンディーでもあり、平尾誠二さんがタックルで倒されるというイメージのない人でした。 プレーも顔立ちもかっこいい「ミスターラグビー」 最近は五郎丸選手のおかげでラグビーが盛り上がっていますが、そのずっと以前からラグビーを引っ張ってきた存在。 ラグビーといえば、2015ワールドカップで五郎丸選手を中心に日本代表の活躍がありました。 これから平尾誠二さんにはますます活躍してもらおうという時期で残念。 現在のラグビーの礎を築き、かつ一流のスーパースターにしてジェントルマン。 こんな人がいるのかというくらいの人でした。 特にヒゲがこんなに似合う人は日本人ではなかなかいません。 平尾誠二さん、お亡くなりになれました。 私の夢は彼に同志社のラグビー部の監督になってもらう事でした。 本当、天才スタンドオフでした。 今のパワーラグビーにない華麗なステップが大好きでした。 ご冥福をお祈りいたします。 — のくトモ nokutomo.

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平尾誠二さん死去 53歳、ラグビー日本代表の司令塔

平尾 誠二 死因

「がん=死」という時代ではなくなった。 だが、どんなに優れた医師でも治せないがんがある。 突然の余命宣告、残された時間はあまりに短い。 平尾誠二ら有名人も、その「運命」からは逃れられなかった。 会場に起きたざわめき 「アナウンスで平尾さんの名が呼ばれ、壇上の中央まで歩いて来られる姿を見て、会場からは息を呑むような静かなざわめきが起こりました。 これまでの姿とは明らかに別人で、私自身も愕然としたことを覚えています。 登壇して1時間以上にわたってお話をされていましたが、杖もつかず立ちっ放し。 目を閉じて聞いていれば、とても重い病気を患っているとは思えないほど張りのある声でした。 しかし、あまりに痩せてしまった姿を目にすると、話に集中することはとても難しかった」 こう語るのは、今年4月に新聞社主催で行われた平尾誠二氏の講演会に出席した関係者だ。 10月に胆管がんで亡くなった平尾氏が、最後に公の場に姿を現したのが、この講演会だった。 関係者が続ける。 「個人的なお付き合いもあったので、平尾さんがご病気だということは存じ上げていました。 しかし、別人のようになった姿を目の当たりにして、がんという病の恐ろしさを実感しました。 そして、それでもありのままの姿で聴衆の面前に現れ、力を振りしぼって話をされた平尾さんの気丈さに大きく心動かされました。 日本ラグビー界の中心的存在として数々の戦いを制してきた男が、重い病に抗いながら、リーダーシップと強い組織について語る姿には鬼気迫るものがあった。 講演が終わり、聴衆に頭を下げ、背筋を伸ばしてゆっくりと歩いて行かれる姿は今でも心に残っています」 言うまでもなく、平尾氏は30年以上にわたってラグビー界を引っ張ってきた存在だ。 華麗なプレースタイル、聡明かつリーダーシップあふれる指導力は誰にも真似できないものがあった。 '19年に日本で開催されるラグビー・ワールドカップを控え、最も必要とされる人材が53歳という若さで逝ってしまった。 別のラグビー関係者が語る。 「がんが見つかったのが昨年の秋だったと聞いています。 その段階で、相当に進行しており、手術は難しく、余命は長くないと言われたらしい。 それでも本人は気丈に病と向き合いながら、最期まで日本のラグビー界を盛り上げるという使命を全うしようとしていました」 昨年1月、同じく50代前半の若さで亡くなった元柔道選手でソウル・オリンピック金メダリストの斉藤仁氏も最後まで病に立ち向かった。 氏が強化委員長を務めた全日本柔道連盟の関係者の話。 「'13年にがんが見つかってからも、闘病しながら選手の指導にあたっていた。 亡くなる1ヵ月ほど前に強化副委員長だった増地(千代里)さんが電話をしたときも、『日本柔道の未来を頼むぞ』と熱く語っていたそうです」 年間2万人が死ぬ 平尾氏と斉藤氏の命を奪った病名は同じだ。 胆管がん。

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【まとめよう】(画像)平尾誠二氏(ひらおせいじ)死去 死因・病気は?【ラグビー元日本代表監督】|フレンズちゃんねる

平尾 誠二 死因

ラグビーの日本代表で主将、監督を務めた神戸製鋼ゼネラルマネジャーの平尾誠二(ひらお・せいじ)氏が、10月20日午前7時16分、胆管細胞がんで死去した。 53歳だった。 京都・伏見工で全国制覇、同大では史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権7連覇、W杯にも3大会連続で出場した。 34歳で日本代表監督に就任し、これまでの常識にはない卓越した理論やカリスマ性を発揮し「ミスター・ラグビー」と呼ばれた。 日本で開催する19年W杯を前に、ラグビー界にとって大きな存在を失った。 再びラグビーが脚光を浴びている。 元ラグビー記者としては非常にうれしいことだった。 ならばあの「ミスターラグビー」とまで呼ばれた平尾誠二の話が聞きたい、笑顔が見たいなと思っていた。 なのに、今年に入り少し映像で見ただけで姿をみせない。 どうしているのだろう、と心配していた。 そんな折の10月20日、突然の訃報に接した。 ガク然とした。 最後に会ったのを思い出すと13年冬のことだった。 神戸ユニバー競技場でトップリーグの神戸製鋼-サントリー戦があり、平尾に会いにいった。 試合後「ご無沙汰」と言って手を差し出すと、最敬礼して「どないしましたん」と、人なつっこい笑顔をくれた。 私も同大卒で、平尾が同大時代に成し遂げた大学選手権3連覇をちょっぴり肩入れしながら取材したのを思い出す。 平尾の縦横無尽の活躍が、よく日刊スポーツの1面を飾ったものだ。 会場のスタンド下でその時の神戸製鋼の現状よりも、同大時代の昔話に花が咲いた。 私が先輩なのに平尾がため口で話してくれるのが、妙にうれしかった。 取材される側とする側の垣根が取れたように思うからだ。 しかし、口ひげを蓄える端正な顔には60針以上縫った傷があるのだ。 同大の当時の岡仁詩部長は「(新日鉄釜石の同じスタンドオフの)松尾はタックルいかんけど、ウチの平尾はよくいく」と絶賛していた。 中学でラグビーを始めた時にこんな疑問を持った。 キックオフは、相手ディフェンス陣が待つ方に蹴っていく。 味方もそのサイドから攻める陣形だからだ。 「どうして守りのいない方に蹴らないのか」。 サインプレーで攻める誰かが、守りのいない方に走って、そこにキックして、そのボールを味方がつかめばうまくいくのでは、というアイデア。 平尾は、そんな柔軟な発想の持ち主だった。 平尾の自由な発想がプレーに生きて、15人がひとつの楕円(だえん)球に集中した結果の偉業であった。 同大が、東京遠征した時は、上野の不忍池近くの宿舎だった。 試合前夜は私もよくお邪魔したものだ。 その時必ず、女子マネジャーが甘いものをおやつに出す。 明日が明大なら、明治チョコレート、日体大ならランニング姿で走る姿のイメージから、グリコのキャラメル。 日本選手権で新日鉄釜石とやる時は、鉄鋼型のチョコレートが出てきた。 それをフィフティーンが食べ尽くすのだ。 平尾もにやにやしながら、その験担ぎを楽しんでいた。 神戸製鋼で初の日本一になった試合も、国立競技場で見ていた。 相手は大東大。 守りは、少しずつ横にずれながら守るドリフトディフェンスを得意としていた。 「それなら、展開せずに、ハーフ団かセンターまでで縦に突き切るだけや」といとも簡単に破った。 当時主将だった平尾の単純明快な作戦だった。 多くの外国籍選手を招集し、当時東芝府中にいたマコーミックを主将に指名した。 昨年、南アを撃破した現在の日本代表の礎を、これまでの日本ラグビーの常識にとらわれなかった平尾が作った、と言っても過言ではないだろう。 平尾の卓越した理論が19年の日本開催W杯で、本当に必要であった。 しかし、あれほど強くてかっこいい「ミスターラグビー」が、わずか3年後のW杯を、グラウンドに下りるどころか、見ることすらできないとは…。 非情すぎる。 残念だ。 天国で、いつものしぐさ、アゴに手を当てながらラグビーを見ているのだろうか。 神戸製鋼の深紅のジャージー姿を思い出す。 「赤い疾風が駆け抜けた」という書き出しの原稿を書いたことを思い出す。 53歳。 平尾の人生もあまりにも早く、疾風のように駆け抜けた。 伏見工3年時に全国大会優勝。 同大に進み大八木氏らと82~84年度に大学選手権3連覇。 英国留学を経て86年に神戸製鋼へ入社し、日本選手権7連覇に貢献。 87、91、95年W杯に出場し日本代表キャップ35。 97年から00年まで日本代表監督。 神戸製鋼GMなどを務め、胆管細胞がんと闘病中だった16年10月20日に53歳で死去。

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