裏 千家 今日 庵。 【裏千家】今日庵とは|由来と意味

裏千家

裏 千家 今日 庵

宗旦時代の茶室は1788年天明の大火により焼失し、現存するものは元の形にならいその直後に再建されたものです。 裏千家の組織 「今日庵」の語は、裏千家組織そのものの別称としても用いられます。 それはやはり、茶室今日庵がその由来から、裏千家を象徴する存在だからです。 今日庵の由来 「今日庵」は裏千家を象徴する号なのですが、その理由は茶室「今日庵」の重要性によります。 茶室「今日庵」の始まり 茶室「今日庵」の始まりは、三代・宗旦の時代にまで遡ります。 利休の孫である三代・宗旦は、1646年、三男・江岑(表千家四代)に家督と共に、それまで使っていた茶室・屋敷を譲り、隠居しました。 それまでの敷地の裏手を隠居所とし、そこに建てた茶室が「今日庵」でした。 この隠居先には、四男・宗室(裏千家四代)を連れて行っており、宗室は後に、この茶室を含む隠居所を継承しました。 こうした経緯から、茶室「今日庵」を継承することは、三代・宗旦から裏千家四代・宗室が引き継いだ、千利休以来の茶の湯の精神が、確かに裏千家流に存在することを象徴しているのです。 茶室「今日庵」が裏千家の象徴として扱われるのは、こうした由来からによります。 「今日庵」の号の由来 宗旦が建てたこの茶室の席開きの日、禅の師匠である清巌和尚を招いていたのですが、時刻になっても来ませんでした。 そのため宗旦は、「明日おいでください」との伝言を残し、別の用事に出かけました。 宗旦が不在の間に清巌和尚がやってきて、その伝言を聞き、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日」と書きつけて帰りました。

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裏千家「今日庵」訪問

裏 千家 今日 庵

>裏千家、今日庵について。 こんばんは。 京の真ん中に生まれ育った、両親が裏千家サンの師範もしている祇園サン 八坂神社サン の氏子から回答致します… >私は裏千家ですが、今度 京都の近くまで行くので、せっかくなので今日庵 の、付近 まで行きたいなぁと思っています。 こんにちは。 呈茶席では和菓子と抹茶が頂けます。 普通、こういう席ではどちらかと言えば安い茶碗が出てくるのが常ですが、茶道資料館の場合は現代の一流陶芸家の茶碗が出てきます。 最初に資料館でお茶を頂きましたときに、自分やまわりの方々に運ばれてくる茶碗を見てびっくりしてしまいました。 やはり宗家の資料館は違います。 今日庵は見学できませんが、その周辺は茶道に関するところがいろいろあります。 (京都市内から少し外れたところにあります。 ) また、機会がございましたら千家の源流の茶室を見学されてみてください。 御参考になれば幸いです。

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今日庵(コンニチアン)とは

裏 千家 今日 庵

表千家、武者小路千家と並び、千利休を祖とする三千家のひとつ。 最大の茶道流派で、茶道人口の過半数は裏千家門下であるといわれる。 今日庵が、表千家不審庵と隣接して、通りからみて裏にあることから、「裏千家」と称される。 裏千家住宅は国の重要文化財に指定され、二畳(一畳台目)の今日庵、利休四畳半の又隠(ゆういん)、八畳の寒雲亭などの茶室がある。 中でも今日庵は国の名勝に指定され、千宗室家元の号、屋敷全体や裏千家自体のこともさす。 三代 千宗旦が、表千家不審庵の北裏に今日庵を建てて四男の仙叟宗室と共に隠居したのがはじまり。 以降の歴代宗室(家元)は、加賀前田家や伊予松山の松平家に仕え、手厚い庇護を受けた。 明治維新後は、外国人や学校教育に茶道を普及させるなど、時代に即した普及発展に尽力してきた。 1646年 三代 元伯宗旦(千宗旦)は、不審庵を三男の江岑宗左に譲り、不審庵の北裏に今日庵を建てて四男の仙叟宗室と共に隠居した。 このときの茶室が、一畳台目の今日庵、利休四畳半の又隠、八畳の寒雲亭であった。 1658年 宗旦が死去すると、仙叟宗室は宗旦の茶室を引き継ぎ、新たに裏千家を興し、裏千家四代となった。 1671年 仙叟宗室は、加賀前田家に茶頭として仕官した。 1697年 仙叟宗室が死去し、その後、五代 常叟宗室が、加賀前田家の仕官を辞して松山藩久松家に仕官した。 幕末まで、久松家に仕官しながら前田家とも交流を続けることになる。 1788年 天明の大火により、茶具は大徳寺に持ち出すことができたが、千家伝来の茶室をすべて焼失してしまった。 1789年 九代 石翁宗室によって茶室が再建された。 明治5年 11代 精中宗室が、京都博覧会において外国人を迎えるための立礼式を創案し、はじめて茶道以外の華道・香道・謡曲などにも携わった。 戦後 14代 碩叟宗室が、茶道の学校教育への導入を働きかけ、クラブ活動での茶道の主流が裏千家となった。 また、15代 汎叟宗室により、海外普及も図られた。

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