浜田 省吾 バラード。 浜田省吾 「初秋」cover

浜田省吾 丘の上の愛 歌詞&動画視聴

浜田 省吾 バラード

概要 [ ] ・アルバムの第4弾となる作品。 『』()が10代、『』()が20代、『』()が30代を主人公にしていたのに対して、本作は40代以上の大人のが選ばれている。 タイトルも「人生の秋」を意味している。 アレンジは全曲浜田とが担当しており、全体的にアコースティックな音作りになっている。 先行シングルとして「」が発売された。 この楽曲はセルフカバーによるリメイクではなく、このアルバム用に制作された新曲である。 また、本作発売に合わせて過去のバラード・コレクション3作がリマスター盤にて同時発売された。 浜田本人はこのアルバムが最後のバラード・コレクションになると話している。 本作の発売に伴うツアーは開催されなかったが、会員限定のコンサート10公演が全国で開催された。 本作から、ソニーミュージックグループ再編事業に伴いレコード会社をからに移籍している。 収録曲 [ ]• 内は原曲が収録されている作品。 タイトル 作詞 作曲・編曲 時間 1. 「」 5:22 2. 「PAIN」 5:25 3. 「悲しみの岸辺」 5:00 4. 「ガラスの部屋」 3:23 5. 「A LONG GOODBYE」 5:24 6. 「NEW YEAR'S EVE」 FATHER'S SON 4:40 7. 「」 5:48 8. 「」 SAVE OUR SHIP 6:19 9. 「紫陽花のうた」 4:52 10. 「」 「アヴェ・マリア」カップリング 4:58 11. 「」 5:26 12. 「初秋」 その永遠の一秒に 〜The Moment Of The Moment〜 7:26 13. 「」 4:41 合計時間: 68:44 参加ミュージシャン [ ] 君に捧げるlove song• Drums:• Bass:• Guitars:• Keyboards:• Manipulation:• Backing Vocal:• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Drums:小田原豊• Bass:• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Saxophones:• Backing Vocal:浜田省吾• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Drums:小田原豊• Bass:湯川トーベン• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Saxophones:古村敏比古• Manipulation:石川鉄男• Drums:小田原豊• Bass:美久月千晴• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Manipulation:石川鉄男• Drums:小田原豊• Bass:バカボン鈴木• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Manipulation:石川鉄男• Drums:小田原豊• Bass:美久月千晴• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Cello:山本裕康• Drums:小田原豊• Bass:バカボン鈴木• Guitars:西川進• Drums:小田原豊• Bass:美久月千晴• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Strings: Strings• Violin:Miya Bodet• Drums:小田原豊• Bass:バカボン鈴木• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Drums:小田原豊• Bass:美久月千晴• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• Strings:Goto Strings• Guitars:西川進• Keyboards:小島良喜• SHOGO HAMADA OFFICIAL WEB SITE.

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【浜田省吾】ガチ名曲ベスト30!この名曲を聴かずに浜省は語れない!

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浜省ファンが選ぶベスト30を知りたい人!• 最近の浜省より昔の浜省の曲が好きな人!• 自分が自他ともに認める浜省ファンの人! 「浜省ファンが選ぶベスト30曲はこうなる!」 以前にバラードとロックから浜田省吾の名曲をご紹介しましたが、実はまだまだ名曲が残ってました。 浜田省吾の場合は他のジャンルの曲もあるので、今回は全ジャンルからガチ名曲ベスト30をご紹介します。 基本的に古い浜田省吾の曲が好きなので少し偏っていますが、名曲であることは間違いありません。 往年のファンは懐かしく最近のファンは新しくそれぞれ感じるはずので、ぜひこの機会に聴きましょう。 ちなみに、浜田省吾の名曲は『 』で聴けるから、この機会にお試しください。 新しい曲にも名曲があったので浜省の良さを再確認できました。 浜田省吾の名曲19位『マイホームタウン』 タイトル 収録アルバム マイホームタウン PROMISED LAND 〜約束の地 1982 The Best of Shogo Hamada vol. この曲はミスチルの桜井のBank Bandがカバーしており、初心者の人でも知ってる曲でしょうね。 歌詞を読むとかなりダサく感じますが、これが浜省の良さだから理解できない人はファンじゃないかも。 浜省の曲はリメイクが多いので聴き比べするのもおすすめです。 ロックの名曲でもご紹介してますが、浜省の曲でロックを感じるなら、この曲は外せませんね。 盛り上がるならライブ盤が良いので、個人的には『ON THE ROAD』の方をおすすめします。 デビューアルバムにはちょっと思いすぎますね。 この曲だと。 浜田省吾の名曲11位『光と影の季節』 タイトル 収録アルバム 光と影の季節 My First Love 2005 The Best of Shogo Hamada vol. 浜省のシングルで1992年の『悲しみは雪のように』以来、久しぶりにオリコンのトップ3位に入った曲。 爽やかなメロディでとても聴きやすい曲だから、初めて浜省を聴く人におすすめするのが良いかもね。 『AMERICA』は聴けば聴くほど好きになる曲ですよ。 浜田省吾の名曲8位『君に会うまでは』 タイトル 収録アルバム 君に会うまでは LOVE TRAIN 1977 Sand Castle 1983 The Best of Shogo Hamada vol. 初収録されたのは40年以上前のアルバムだけど、全く色褪せずに聴こえるのが浜省の凄さかも。 たぶんこの曲が今も色褪せないのは、曲のシチュエーションにどの世代も共感するからでしょうね。 ちょっとした変更だけど気になる人は気になるでしょうね。 浜田省吾の名曲5位『もうひとつの土曜日』 タイトル 収録アルバム もうひとつの土曜日 J. BOY』などに収録されている『もうひとつの土曜日』です。 シングルでは発売されてないのに、凄く人気のある曲で第1位だと思う人が多いかもしれません。 確かに凄く良い曲だけどファン以外にも知ってる曲だから、第1位にするのはあえて避けました。 ガチの順位だったら5位ぐらいが妥当じゃないですかね。 全部で5枚のアルバムに収録されてることから、浜省自信もかなり好きな曲なのかもしれません。 バージョンとしては洗練されていて一番に聴きやすい、『EDGE OF THE KNIFE』をおすすめします。

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【人気投票 1〜18位】浜田省吾の曲ランキング!おすすめの名曲は?

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浜田省吾 基本情報 生誕 1952-12-29 (67歳) 出身地 , 学歴 卒業 中退 ジャンル 職業 担当楽器 活動期間 のバックミュージシャン 〜 ソロ レーベル 〜 〜 クリアウォーター(Sony Records) 〜 クリアウォーター() 1998年〜 事務所 〜 1983年〜 公式サイト 浜田 省吾(はまだ しょうご、 - )は、の。 生まれ。 (野球部・出版部所属)卒業、中退。 、のメンバー(・)としてプロデビューし、にシングル「」とアルバム『』でソロデビュー。 マスコミや一部のファン等から「 浜省」(ハマショー)という愛称が使われることがあるが、これに関して本人は「快く思っていない」と発言していた。 しかし近年のコンサートでは自ら「浜省」と言うことがあり 、「そのように呼ばれることに特に抵抗は無い」と語っていたこともある。 デビュー時からがトレードマーク。 露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。 デビュー後の数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。 そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。 一般的に認知されている楽曲の他にも父親の体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、色の強いアーティストである。 また、「ロック=」という既成概念に疑問をもち、による歌詞や歌唱にこだわった。 このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。 、、、、、、、、、ら、所属時代に多くの楽曲を提供している。 来歴 [ ] 幼少期 [ ] にに生まれる。 生家は現在も残っており、かつて誌上で訪問したことがある。 家族構成は本人、両親、姉2人。 父は戦前 、その後は地方警察署に勤務。 勤務時代の、直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した。 定年後は女子寮の寮長をしていたこともある。 父の転勤のため、3歳から、、、広島市と広島県内で転校を繰り返す。 18歳までに20回近く引っ越しをした。 こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。 9歳のときにの海沿いの町、鷲部に転居。 この頃、から流れるの日本デビュー曲「」を聴く。 小学校4年の頃、『』かなにかに載ったビートルズの小さな写真を初めて見て「どの人がビートルズ」かと姉に聞いた。 まだ子どもだったので複数形"S"の意味を知らなかった。 当時のはの軽快なが主流だったので大きなショックを受ける。 姉の誕生日プレゼントだったを取り上げ、ギター演奏を始める。 学校でもホウキをギター代わりに演奏の真似をしたりしていた。 雑誌などにビートルズの名前が載っていると、切り抜いてノートに張り付けたりしていた。 、13歳の時に汐見町に転居、呉市立二河中学に転校。 以降は高校卒業まで呉市で育った。 を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた。 ビートルズの他には、、、などを好んで聴いた。 少年期の音楽体験については、との対談集『ロックは語れない』などに詳しい。 また、子供の頃はロックやポップスと並んでが大好きな少年で、ずっと読んでばかりで親に怒られたという。 を買ってきて、枠線を引いて自分で漫画を描いて、クラスで回し読みしていた。 今はほとんど漫画は読まないらしいが、『』だけは未だに全巻揃えてあるという。 高校時代 [ ] 、県内有数の進学校、に入学。 父の期待に応えたいという一心で受験勉強に励んだ。 しかし、授業の合間の休憩時間にも全員が予習・復習をしているという環境に馴染めず、不良の溜まり場だった野球部に入部。 また、「グルックス」というバンドを組んでいた後の盟友・と知り合い「」にも参加。 野球部はきつい練習や先輩部員との対立から3年の時に退部。 野球部を辞めた後は・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり呉の弾薬庫の弾薬運搬反対デモなど、にも積極的に参加した。 こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。 そうした動きを「」と批判する父親とも激しくぶつかった。 浜田いわく父親は非常にの強い人物で、当初はミュージシャン活動にも批判的だったが後に理解を示し、広島でコンサートが行われた際は必ず観に来ていたという。 高校時代にはビートルズは解散直前、愛聴していたビーチ・ボーイズやラスカルズもあまり活動しておらず、本人はこの時期を「ロックの暗黒時代」と振り返っている。 浜田は3分間から4分間のシンプルなポップスやロックが好きで、やと呼ばれるような音楽を嫌っていた。 そんな中でも、当時はや、などを聴いていた。 特に、知人にレッド・ツェッペリンを紹介されて初めて聴いたときは、ビートルズと同じくらいの衝撃だったという。 、大学受験に失敗後、に転居。 広島市内の、 に通う。 この年を進めるに加担しながら、に出席したの行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。 これは「」の・が広島へ反戦列車を走らせたことでも知られる。 この頃はをよく観てにも傾倒、アメリカ文化に強く憧れた。 また、初の海外アーティストのコンサート体験として、レッド・ツェッペリンの広島公演を観に行っており 、「聴いたことがないくらいデカい音」だったという。 この頃、フォーク村の先輩からボブ・ディランを聴かされ「なんか変わった歌い方をするなぁ」と思ったという。 神奈川大学時代と大学中退まで [ ] 、1浪してに入学する。 華やかなキャンパス・ライフを夢見て上京するものの、まだ学生運動が盛んな時代で 、大学はされたり、で休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。 同じように上京して大学生活を送っていた町支寛二らと再会し、一緒にバンド活動を始める。 20歳のある日の夏、大学の正門前にあった下宿で、の「サーファー・ガール」に影響を受け、「」を作った。 間奏はビーチボーイズの「Summer Means New Love」にそっくりであった。 町支達に聴かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴く風のサウンドに「これは良いよ」と絶賛された。 「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話している。 、音楽活動にのめり込み大学中退。 両親には「1年間だけ休学させてほしい」と伝えたが、気持ちとしては辞めたも同然だった。 下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のと他校から来たセクトとの激しいが発生。 が飛び交い、傷ついた学生達がキャンパス内に転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見ていた。 このことで「もうすべてが終わった」とはっきり実感する。 広島に戻り、「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド「 」を結成。 愛奴結成時、既にギターは町支寛二と青山徹、ベースは高橋信彦に決まっていた。 残ったドラムとキーボードを浜田省吾と山崎貴生 グルックス当時はギター担当 とジャンケンで决め、浜田がドラム、山崎がキーボード担当になった。 ギター担当の青山徹の実家の屋根裏部屋を借りて、屋ののをしながらバンド練習の日々を過ごす。 また、の屋上、サテライトスタジオでのライブをNHK広島のプロデューサーが耳にし、NHKのスタジオで、五曲レコーディングする。 後にソニーのディレクター蔭山敬吾が聴くことになるデモテープである。 地元のテレビ番組で演奏したりした。 後にに参加する、らはこの時代の音楽仲間。 プロデビューと不遇の時代 [ ] 、再び上京し、の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。 ドラム経験は3ヶ月程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。 拓郎のバックバンドとして何度か『』などテレビにも出演した。 ただし、演奏技術の問題からツアーでの「」は演奏メニューから外され、拓郎は生ギターの弾き語りコーナーで「落陽」を歌った。 ツアー中休みの7月に発売されたよしだたくろう・のシングル「」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。 しかし、8月にレコーディングされた拓郎のアルバム「」(12月発売)は、全てによるレコーディングとなった。 この年22歳の最後の日に作った曲が、後のソロ・デビューシングル「」。 に愛奴としてアルバム『』とシングル「」でレコード・デビュー。 当時、では同社始まって以来の大プロモーションを行い、の「」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。 また「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、への憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。 愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。 愛奴脱退後は音楽活動を続けながらなどのアルバイトもしていた。 ぼんやりと就職雑誌を眺めることもあったという。 にアルバム『』とシングル「」でソロデビュー。 プレス3,000枚。 ソロ初ライブは同年、「」。 ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。 直後にのフィルムコンサートのを務めた。 また、時代のとジョイント・コンサートも行っている。 また地方のバンドと合体してステージをこなしたり 歌わせてもらえる所ならどこでも、の店頭はもちろん、の催し、果てはの流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。 この頃の全国巡業での観客は数十人から数百人程度で、描いた夢には程遠かった。 ソロ活動を行う浜田に前バンド仲間のが合流、同年12月に愛奴は解散している。 はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。 当時の制作サイドはに代表されるような都会的でポップなソングライターとして開花させようとしていた。 本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。 しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいき、「曲は書けるが詞が全く書けないのような状態」に陥る。 、職業が半数以上を手掛けたアルバム『』発表。 本アルバムからディレクターが蔭山敬吾からに変わる。 プレス1万枚。 から始まった「」などで、後輩のやらがブレイクする中、「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じる。 こうした経緯から、1970年代の初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。 「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。 特にサウンド面で納得がいっていないらしく、以降にほとんどの楽曲をしている。 ちなみに、、25歳のときにしている。 自身のレコード売上による収入は微々たるものだったため、他の歌手への楽曲提供による収入をもとに、や、の資金に充てたという。 浜田にとって初めての海外旅行でに行っている。 、のとして書いたシングル「」が初のスマッシュ・ヒット(最高25位、売上10万枚)。 今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!? 」みたいな印象だったという。 このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。 なお、この関係で『』()や、日清食品がスポンサーだった『』()の公開放送に出演している。 この時のことを後のインタビューで述べているが、「朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだった」という。 結局『ヤングおー! 』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回ののテレビ出演がある。 コンサート本数も増え、ホールコンサートとしては初めて満員も記録する。 音楽性の転換と成功への道 [ ] 、6thアルバム『』リリース。 それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。 念願でもあった初の海外レコーディング作品で、やのなどを代表する一流ミュージシャンが参加した。 セールス的にはそれほどでもなかったが、自身の方向性を見つけ出す。 また、からまで、の深夜番組『』で月曜日担当のを務める。 同年10月にはツアー先の沖縄で、母が脳閉塞で倒れ危篤状態との知らせを受ける。 なんとか一命は取り留めたものの半身不随を患い、このときの気持ちを「」という楽曲に込めている。 、での初コンサートを開催。 当時の浜田の動員力では無謀とまで言われたが、結果は即完売で大成功に終わる。 この頃はまだ「」の一発屋のようなイメージが強かったが、武道館の成功によって大きな注目を浴びる。 同年、そのときの模様を収録した『』を発売し、初のトップ10入りを記録。 これ以降はコンサートツアーのタイトルを「 ON THE ROAD」とする。 は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。 一方で、所属事務所であったとの間で音楽性やコンサート・ビジネスに対する考え方の違いが表面化し、浜田自ら社長にかけあい 、1983年に独立。 音楽事務所「」を設立する。 事務所名は浜田が敬愛するの曲名「The Road And The Sky」から付けられている。 長らく浜田の個人事務所であったが、以降は(所属は約1年程で個人事務所を設立し独立)、、、らが所属する。 1983年、福岡・で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。 独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。 翌年には2回目となる「A PLACE IN THE SUN」をで開催している。 ただし、この横浜スタジアムでの公演はあまり良い印象がないようで、これ以降スタジアム・ライブは開催されていない。 この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。 アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。 に発売した初のセルフアルバム『』が自己最高位第2位。 〜、多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。 その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。 に発売された2枚組アルバム『』がソロデビュー10年目にして初の・アルバムチャート第1位(4週連続)を獲得。 名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。 「ON THE ROAD '86 "I'm a J. BOY"」ツアーの終了後のに父親がのため死去。 父親の闘病生活や逝去といった出来事は、浜田の音楽活動にも大きな影響を及ぼしている。 、1年半振りの新作『』を発売。 その後、ほぼ1年間をかけて100本のツアーをこなす。 同年の・での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。 当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。 ツアー終了後の、初となる映像作品『』を発売。 この時のオープニング曲「A PLACE IN THE SUN 」は、ヤング・ラスカルズ・バージョンである。 その後しばらく音楽活動から離れ、楽曲制作もツアーも行わず休養に入る。 トップ・アーティストとしての苦悩の時期 [ ] 、久々のアルバム『』を発売。 それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。 そのアルバム内容から引退が囁かれる。 アルバム発売後には、こちらも久々となるツアーを開催し、2年間に渡ってホールツアーとアリーナツアー合わせて109公演を行う。 に「」の主題歌として発売されたシングル「」(リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。 累計売上170万枚のビッグセールスを記録した。 同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。 しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。 同年にはシングル「」を発表。 ・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあったの治療・研究に寄付するというチャリティー・シングル。 総額で3,500万円程が寄付された。 「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っている。 精神的にダウンしていた状態から立ち直り、に3年振りのオリジナル・アルバム『』を発表。 を全面的に取り入れた新しい音楽性を示すが、詩世界は前作『誰がために鐘は鳴る』と同様に重苦しいテーマに包まれている。 アルバム発売後のツアー中の、バンドメンバーのにが見つかり、ツアーを一旦中断した後に再開した。 カップリングの「恋は魔法さ」はを舞台にしたラブソングで、その年に発生したの復興を願い、「アヴェ・マリア」同様に印税収入を全額寄付。 このシングルは事務所の後輩であるや、らと共に制作した。 同年、プライベート・レーベル「クリア・ウォーター(Clear Water)」を発足。 、2作目となる映像作品『』と、その盤『』を同時発売。 同年には3年振りとなるオリジナル・アルバム『』を発売。 それまでの作品とは打って変わり、ポップで明るい作風となっている。 アルバム発表後には96年から97年に掛けてアリーナツアーを行う。 さらにには1970年代の楽曲のセルフカバー・アルバム『』を発売するなど、精力的に活動する。 、吉田拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「」をカバー。 拓郎自身もとで参加している。 CDとアナログ盤が同時発売された。 にはこれまでのチャリティー活動の経験を踏まえて、有志と共に「J. Foundation」というを設立している。 コンサート会場の受付では毎回を行っている。 この頃から従来のコンサート・ツアーの在り方に疑問を抱き始め、音楽の旅の意味を見つめ直すべく新たなツアーを企画する。 、からを跨ぐ前代未聞のツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。 全国のホール、アリーナ、ライブハウス、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。 このツアー中に初のファンクラブ限定ライブも行っている。 4年間で127ヶ所198公演を開催し60万人もの観客を動員。 には特別公演として20年振りに日本武道館でライブを行う。 浜田自身は前日に北海道入りしていて無事だった。 その公演では、亡くなった機長を悼んで黙祷が捧げられた。 そのツアー期間中のには、『』『』『』『』『』『』『』の1980年から90年までのオリジナル・アルバム7作にを施し再発。 『DOWN BY THE MAINSTREET』『誰がために鐘は鳴る』はリミックス、『J. BOY』はリミックスとリアレンジメントが施されている。 、デビュー25周年を記念した初の(ヒストリーアルバム)『』を発表。 チャート1位を獲得し、120万枚の大ヒットとなる。 には本人が制作に参加する形で、の、、で自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。 このことは20年振りのテレビ出演として話題となる。 テレビでは、浜田本人がとコントを披露する。 4年間のツアーが終わり、しばらく表立った活動がない状態が続いたが、に本人を題材とした異色作のゲームソフト『』が発売される。 浜田も本人役でとして出演している。 プロデュースはライブでキーボードを担当する。 コンサート形式でかつツアー型のFCイベントは自身初となる。 、春嵐こと小説家のとアレンジャーのと結成したユニット「 」にメンバーとして参加。 シングル「」、アルバム『』を発売する。 ボーカリストにのや元のらの豪華な面々を迎えた。 デビュー30周年と東日本大震災を受けて [ ] 、4年振りとなるオリジナル・アルバム『』を発表。 9月から同じく4年振りとなる全国アリーナツアー「」を開催し、26公演を行う。 同年、やらが主催する「」に、最終日の大トリとして出演する。 桜井とは初のステージ共演で、「」「」「家路」の3曲を披露した。 にソロデビュー30周年として2枚のベストアルバム『』『』を同時リリース。 また、に発売された『』が3面紙ジャケット仕様で期間限定にて再発された。 同年よりを皮切りに「」をスタート。 ソロデビュー30周年ということもあり、何か大きなイベントをやろうとも考えたらしいが、原点に帰って全国のホールを回ることにした。 のまで53ヶ所83公演を行い、を除く全国46都道府県のホールを回った。 にはFairlifeとして2ndアルバム『』を発表する。 ツアーの合間を縫って制作された。 、6年振りとなるライブDVD『』をリリース。 2005年のアリーナツアーと2006〜2007年のホールツアーの全109公演から選び抜かれた映像を収録。 300分を超える作品となった。 同年からのを開始したところ、親世代の影響で聴き始めたと思われる世代の子供たち、いわゆる「アラフォー・チルドレン」(10代後半から20代前半)に支持され、ダウンロード・チャートで上位に食い込む現象が起きた。 通常のバンド・メンバーに加えて、をバックに従えたスタイルでのツアーだった。 同年7月、のにて浜田省吾の展覧会「」が開催される。 30年以上に渡って浜田作品のを務めているによる、写真・デジタルアート・映像・音楽を織り交ぜた作品展。 翌年5月には・の中之島バンクスにて「浜田島II」が開催された。 、Fairlifeの3rdアルバム『』をリリース。 先行シングル「 feat. from 」は、『』の主題歌に起用されている。 同年、ベストアルバム『』『』に続くベストアルバムシリーズ完結編『』とDVD『』を同時リリース。 このDVDの構想は2000年頃から始まっていたという。 、約5年半ぶり(ツアー自体は約3年半ぶり)のアリーナツアー「」をを皮切りに開催。 12都市全34公演の日程だったが、ツアー直前のに発生したの復興支援コンサートとしてでの公演が追加され、チケットとグッズの売上の収益(約2,100万円)をの幼児施設除染のための義捐金として寄付された。 ・、東日本大震災の影響で延期されていたアリーナツアー「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」の公演が開催された。 また、「ON THE ROAD SPECIAL "The Last Weekend"」と題した、東日本大震災の2回目の復興支援コンサートをにて・の2日間に亘って行われた。 チケットとグッズの売上の収益(約1億2,200万円)は被災地復興のための支援金として寄付。 前年4月からのツアーは全国12都市37公演、延べ約35万人を動員して終了した。 同年、公式チャンネルを開設した。 過去のやライブ映像などが配信されている。 同年、4年半振りとなるライブ映像作品『』と、ライブ・アルバムとしては30年振りとなる3枚組CD『』を同時リリース。 盤と盤でリリースされ、浜田の映像作品としては初のBD作品としての発表となる。 同年付の総合DVDランキングで『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』が初登場1位を獲得し、59歳9ヶ月での「最年長音楽DVD総合首位獲得記録」を樹立した。 浜田の映像作品の週間ランキング首位獲得は、DVD・BD両ランキングでは初めてであり、映像作品としてはビデオ『』以来、16年7ヶ月ぶりの映像作品首位となった。 同年、の特別番組「浜田省吾ライブスペシャル〜僕と彼女と週末に〜」が放映される。 前述ののNHK特番への出演以来、12年ぶりのテレビ出演となった。 テレビ内容では浜田本人がクマの着ぐるみを着るというお茶目ぶりを見せた。 8月23日、映画「」(原案・脚本・監督:板屋宏幸)の主題歌として浜田の「」が起用される。 浜田にとって映画の主題歌は初となる。 12月19日〜28日、にて「」が開催される。 公開の映画『』の主題歌として「夢のつづき」を歌うことが決定。 浜田にとって10年ぶりの新曲で初の新曲による映画主題歌である。 楽曲は映画公開前の、EP盤(ミニアルバム)『』にてCD化された。 〜、にて「」が開催される。 、『』以来、10年ぶりのアルバム『』をリリース。 全17トラック、収録時間75分を超える大作で、完全生産限定盤、期間生産限定盤、通常盤、完全生産限定でリリースとなる。 完全生産限定盤は、アルバム収録曲のアコースティックバージョンやリミックスバージョンなどのボーナストラックを収録した特典CDと、などが楽しめる特典映像 付きの豪華3枚組仕様となっている。 初週で8. 0万枚を売り上げ、2015年5月11日付オリコン週間アルバムランキングで初登場首位を獲得した。 首位獲得は発売のベスト盤『』以来14年半ぶり。 なお、同週付のアルバムランキングでは、浜田が75年のデビュー当時ドラマーとして在籍していたバンド・の40周年記念アルバム『』が初週売上5014枚で初登場11位を獲得。 シングル・アルバムを通じ初のランクインにしてTOP20入りを果たした。 また付けのオリコン週間アルバムランキング で付けに続き2週連続で首位を獲得。 60代のアーティストとしてシングル・アルバムを通じ史上初、最年長での2週連続首位を獲得した。 これまで最年長記録は、の59歳6か月 で、62歳5か月の浜田はその記録を2歳11か月更新した。 なお、浜田にとって2週連続首位は、1992年4月20日付のシングル「」以来23年1か月ぶり。 アルバムは、1989年9月25日付の『』以来25年8か月ぶりとなる。 (土)放送のNHK『SONGS』に出演する。 同番組は、浜田にとって初の音楽番組での単独特集となり、レギュラー音楽番組に出演するのは約35年ぶりとなる。 番組内で浜田は、今年4月にリリースしたアルバム『』の制作についての心境を語るほか、自身がアメリカやヨーロッパを旅しながら撮影した映像が放送された。 に、デビュー40週年を迎えた。 シングル「路地裏の少年」アルバム「生まれたところを遠く離れて」のリリース40周年を記念してオフィシャルチャンネルにて、「」のスペシャル映像が公開された。 また、 にアルバム『』の30周年を記念して、2万セット限定『"J. BOY" 30th Anniversary Box』と完全生産限定盤『"J. BOY" 30th Anniversary Edition』発売の決定が発表された。 浜田本人にとってはファンクラブコンサート以外では初となる視聴者からの好きな曲をアンケートし、その中から演奏された。 福岡公演を本人の体調不良で延期となってしまった。 振替公演は2017年4月に開催された。 2017年9月6日にミニアルバム『』,『』を2枚同時発売。 『Vol. 1』はオリコン1位、『Vol. 2』は2位を記録した。 エピソード [ ] 人物像 [ ]• 自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、、、、の4組。 ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという。 特にには強く傾倒しており、自身が設立した個人事務所の「」、に活動を共にしたバックバンドの「」は、それぞれ彼の曲名からの引用であり、さらには飼っていた犬にまで「ジャクソン」と名付けるほどだった。 に発売されたブラウンのベスト盤には、を寄稿している。 ブラウン本人とも交友があり、彼からプレゼントされたを宝物として大切にしている。 トレードマークは。 人前ではまったく外さないことでも知られる。 サングラスをかけだした由縁は、自身の好きなや、らがかけていたのを真似したため。 また、ドラムは目立たないため何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。 1980年1月8日放送の『』では、20歳の頃、吉田拓郎のバックバンドで帯同した際に、7、8歳上の拓郎と比べてえらくこっちが子供っぽく、何とか折り合いをつけるために、俺はサングラスをかける、お前はヒゲを伸ばせと、甘く見られてはいけないとサングラスをかけはじめたのがきっかけと話している。 他に「素顔を覚えられるのが嫌だから」ともインタビューで答えている。 時々、サングラスをかけたまま顔を洗ってしまうこともあるという。 で行われたライブでは、節電もほぼなく非常に明るいと感銘を受けたらしい。 で節電となったは非常に世の中が暗いと発言した。 しかし、その話の落ちは部屋の中でもをしていたためというもの。 、写真週刊誌に浜田がサングラスをはずし、浜田の妻と歩く姿が盗撮され、掲載された。 その後憤りを感じた本人は、「」という曲を制作した。 公式な写真や映像では、サングラスを外して素顔を確認できるものは一切ない。 サングラスを外していても向こう側を向いていたり、顔に影が当たっていたり、目を閉じていたりするため、素顔を覗くことはできない。 ただし、『浜田省吾事典』には子供の頃の素顔は掲載されている。 若い頃、・のラジオ番組にゲスト出演。 この時、議論が白熱した結果、浜田が激怒し「結局なんでしょ、あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょうが! 」と面と向かって毒づいたことがある。 これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。 しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜田を支援し続けている。 渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーティストと述べている。 「」本誌で特集した日本人ミュージシャンは、浜田と、、と数えるほどしかいない。 テレビやラジオにはほとんど出演しないが、音楽誌には先の関係本を中心に露出は少なくない。 特に1980年代には音楽誌の読書アンケートでも、と並んで圧倒的な支持を受けていた。 ところが、事前に用意されたとも思わせるウィットの利く言葉で埋める佐野やに比べると、浜田のインタビューはあまり面白いとは言い難く、浜田を特集した号は大きな反響がなかったという。 かなりのスポーツ好きで、小学生の頃はを習っており、中学時代は陸上部、高校時代は野球部に所属していた。 また、旅をするのも好きで、よく一人で海外に出掛けている。 や、などは全くやらない。 ただしそれらが嫌いというわけではなく、「ずっと同じところに座ってひとつの作業をする」ということが苦手なため。 もともとは喫煙者だったが、現在は禁煙している。 酒も20代〜30代の頃はほぼ毎日飲んでいたが、現在は特別な席以外では飲まないようにしている。 プライベートなことはほとんど話さないため、あまり知られていないが、に結婚している。 ファースト・アルバム『』の裏ジャケットで腕を組んで歩いている女性が現在の夫人である(当時は恋人)。 また、「」「」「」といった父親が主人公の楽曲を作っているが、現在まで浜田本人には子供はいない。 髪型は時とともに大きく変化している。 デビューから80年代初頭までは長髪。 以降は基本的に短髪であった。 しかし、からにかけて再び後ろで髪を結ぶほどの長髪にしている。 からは少し茶色の交じる髪の毛にしており、からごろまでは若干白髪が交じる黒色である。 その後は、やや白髪に近いグレー色となっている。 、ヒゲを伸ばしたことがあるが、不評だった。 メディアに全く出ず、コンサートで初めて本人が動く姿を見たという人に対して、「俺だって生きてるんだから動くさ! 」と笑いながら返したエピソードがある。 1980年前後に同姓で同学年でもあるのから「浜田といえば 金吾です」という挑発的な宣伝コピーを付けられたことがある。 自分の職業は「」と評している。 海外でのIMMIGRATIONでの職業欄で、作曲家・作詞家・ミュージシャン・歌手と候補はあるが、「作詞家・作曲家となると、自分よりも優れた人が多くいるので名乗るのは気が引ける」「ミュージシャンと言えるほど楽器はうまくないし、また歌手と言えるほど歌がうまいとは思っていない」と、どれも自信がないとした上で、ソングライターならば胸をはって言えるという理由からである。 、出演の可能性が報じられた が、直後に事務所がオフィシャルウェブサイトで「そういった事実は一切ない」と否定した。 自分と同じくサングラスをしている人(等)のことを、「オレと同じ眼鏡かけてる人」と言い、笑いを誘う。 生まれた家は現在も竹原市内に存在する。 家の玄関先には訪問者用ノートが置かれており、全国から訪れていることを示している。 アルバム「」発売後にニッポン放送のラジオ番組へゲスト出演した際、「この前サングラスをかけずにタクシーに乗ったら、運転手に『お客さん、ハマショーに似てますね』と言われ、『よく言われるんです』と返したんです。 」というエピソードを披露した。 音楽性 [ ]• 音楽的なルーツは、10代の頃に聴いていたのロックやポップスで、その中でもビートルズをラジオで初めて聴いた時には衝撃を受けたという。 当時の音楽情報はラジオが中心だったので、数少ない洋楽が流れるチャンスを待ってテープに録音したり、海外のヒットチャートをノートに書き留めたりしていた。 同学年であるも同じことをしていたらしく、一緒に食事に行った際、当時の話題で盛り上がったという。 曲作りの上ではを重要視しており、「歌を作ることは詞を書くこと」と考えている。 浜田の描く歌詞にはストレートな表現が多いが、それは「歌というのは一瞬にして消えるものだから、そのときに情景とかイメージを受け手にしっかり伝えなければいけない」という考えに基づいている。 また、「でをっぽく歌いたくない」と話しており、出来るだけクリアーに日本語を歌うよう心掛けているという。 洋楽の影響から歌詞に英語が含まれていることが多く、頻繁に海外を訪れているため英会話も堪能である。 歌詞の書き方のポイントとして、ツアーに参加しているによると「(福田の歌詞に対して)いい歌詞なんだけど、これ恥ずかしがってるでしょ? 照れてるでしょ? ダメだよ、それじゃ。 もっと照れる、自分で照れて二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞は。 」と言われたという。 福田が「浜田さんって確信犯なの? 」と聞くと「そうだよ」と答えた。 のレコード・デビュー以来、一貫して系の(〜〜)に所属している。 ソニー所属の日本人アーティストでは、 ともにレコードデビュー に次いで三番目の古株であり、男性シンガーソングライターとしては最長である 女性シンガーソングライターとしてはとしては五輪真弓。 ちなみに、四番目の古株はから所属している。 デビュー以来、コンスタントにアルバムをリリースしているが、1990年代以降は制作のインターバルが長くなってきている。 に限ってみると、1990年代は3枚、2000年代は2枚の発表に留まっている。 1979年のスマッシュ・ヒット「」は、ということで、どこか引っかかる部分があり、長くコンサートで歌わなかったが、実は、ソロになってからCMソングでヒットを出してコンサートツアーをしたい、と色んなCMのオーディションを受けている。 しかし1977年、との『』のために作った曲はボツに 、1979年のとキャティの「TWO WAY SUMMER」は、「あなた一本で行きますから」と言われたにも関わらず不採用となった など5回ぐらい続く。 「」は「もうタイアップは二度とやらない」と頭に来ていたタイミングでの楽曲で、の作詞を浜田がほとんどの歌詞を手直ししたといわれ「CMソング」のような内容になっている。 1982年の春のキャンペーン「ルージュマジック」も依頼があったが、対抗していたがで「」をやるとなって、「同じCBSソニーではまずいんじゃないか」とボツとなった。 長いキャリアの中で、大きなヒット曲と言えるものは発売の「」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ。 本人も「唯一のヒット曲です」と自嘲気味に話すことがある。 では通算10週1位を獲得し、以降ではの「」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。 のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「」と、の楽曲で一番好きな曲だった「」の2枚だけだという。 「」、「」、「」など、浜田ほど「故郷・広島」を歌ったアーティストはいない。 広島が作品のなかで大きなテーマになってくるのは"家路につく"という意味を持ったタイトル作『』以降であるが、広島を背景にした曲は、、基地の街、錆びれた街、といった物で、懐かしい場所として讃える「ふるさと賛歌」とは異質のものである。 交友関係 [ ]• 広島出身ということもあり、大のファン。 ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。 現役時代のとは、非常に仲が良かった。 他にもやからサイン入りバットをプレゼントされている。 に、の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、「」の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。 広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が使っていたドラムだった。 本人曰く「当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった」という。 や、()など浜田に影響を受けたと言う後輩アーティスト に会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。 言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」という内容のようである。 は、浜田に一番影響を受け人間的にもとても尊敬していると話している。 1988年での野外ライブにもゲストとして参加し、『』をした。 近年はのように、親の影響で浜田のファンになったと話す、若いシンガーソングライターも出てきている。 事務所の後輩であるとも交流があり、のシングル「」で共演している。 まだほとんど売れていなかったメジャー・デビュー時からスピッツの音楽性を高く評価しており、「」で彼らがブレイクしたときには「自分のことのように嬉しい」と述べている。 初期の作品はほとんど歌えるそうで、「」「」「」などがお気に入りだという。 のとはからの交友があり、に「WALKING IN THE RAIN」という楽曲を提供している。 には「」のに時任が出演している。 はデビュー前に『』を聴いて浜田のファンになり、デビュー後に『MIND SCREEN』に収録された「ダンシング・レディ」をテレビで歌ったことがある。 「」1987年1月号で対談もしている。 田原が行った他人のコンサートは浜田のみで 、では自分の曲は歌わず、浜田省吾と矢沢永吉を歌うという。 スポーツ界にもファンが多く、界ではや、など。 カズとはにサッカー留学していた頃からの交友で、には『』『』のCMにも出演している。 界では、、、現在はタレントのら。 三沢はでよく浜省ナンバーを歌っていたという。 界ではら。 もファンであり、コンサートで楽屋を訪問したことがある。 界では元で、現在はのら。 この他、著名人のファンとしての(にも入っており本人との交友がある)、、らが有名。 山崎はモノマネ番組で浜田の歌をよく歌う。 のは「と浜田省吾しか聴かない」という。 の芸名は、父親が浜田ファンだったため。 なお、浜田翔子は「夢は浜田省吾さんのPVに出演すること」と公言している。 元のは「もうひとつの土曜日」がカラオケのだという。 のギターのルーツは、姉の影響で聴かされた浜田だという。 のは「、浜田省吾、がカラオケの十八番」と語っており 、特に「」については「歌詞が面白い。 何度聴いても笑ってしまう」と自身のラジオ番組で度々評している。 また、女優のも浜田のファンで、1980年代前半にダイナマイトバディと本音の物言い、今でいうオヤジ殺し的キャラで非常に人気があったが、レギュラーを持っていた「」()を通じて浜田と仲良くなり、浜田は既に既婚者だったのだが、週刊誌にも色々書かれた。 烏丸の方もその後結婚し、フェードアウト状態になって事なきを得たが、2008年11月から2010年3月まで限定開設された「」でのインタビュー(配信終了)や週刊誌のインタビューで、浜田のことを「あの人の顔が好き」「たぶん今まで53年間生きてきた中で、一番好きな男だと思う」「もし昔に戻れるなら、あの頃に帰りたい」「省吾と2人、少年少女時代に戻りたい」などと話し、当時と変わらぬキレ味を見せつけている。 を自身のラジオ番組のゲストに呼んだ際には「ので見たさんまのマナーが悪い」と、これも面と向かって説教を始めて「ボクがゲストやから」と笑いで済まそうとするさんまを無視し説教を続け、さんまを黙らせてしまったことがある。 さんまが『』の最終回にゲスト出演した際にも、このエピソードを披露していた。 さんまもカラオケでよく浜省ナンバーを歌う。 も浜省ファンで、に系『』で「浜省だらけの野球大会」という企画を放送したことがある。 浜田本人も事務所で観ていたらしく、ファンクラブ会報のインタビューで「面白かったですよ。 愛情表現だと受け取りましたけど(笑)」と好意的に受け止めていた。 系『』でも、車のトランクに浜省が入っている「浜省不法所持」といったコントを放送している。 の「」のアコーステック・ギターを弾いているのは、たまたまレコーディングに来ていた浜田であると、がラジオや取材等で語っている。 浜田と甲斐はデビュー時から交友があり、よくで飲み歩いていたという。 コンサート関連 [ ]• 1976年にソロデビューした時期が、ちょうどのソロデビューと重なり、CBSソニーが矢沢を売り出す一環として行ったのが、矢沢のフィルムコンサートであった。 同じCBSソニー所属だった関係で浜田は、そのフィルムコンサートの前座を務めた。 ギターケース一つ下げて地方の指定された会場へ何度か一人で行った。 そこは会場の周辺をとに改造されたクルマが取り巻くの集会のような光景。 会場内はにという客で埋め尽くされている。 フィルムコンサートは、本人がステージに立つコンサートよりも熱狂的なファンが集まるため、「期待の新人、浜田省吾です」などという司会の声はまるで耳に入らず、「永ちゃん」コールを繰り返し、「早く、永ちゃんやれよ!! 」と罵声が飛ぶ。 スタッフから革ジャンを借りて、トイレで髪を濡らしてリーゼントにして持ち歌を歌うが、曲が終わっても聞こえてくるのは、「永ちゃん」コールであった。 さらに地方にプロモーションに行くと、広島以外ではまったくの無名で、浜田を知る人は皆無。 聞かれることは「ってどうなったんですか? 」「はどんな人ですか? 」ばかりで、吉田拓郎は恩人ではあるが、嫌悪感すら生まれ、名前を耳にするのもうとましくなったという。 後半の長い下積み時代、小さな街で数百人を集めてのライヴに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『』をやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。 テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライヴはだと思う。 テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達は丁寧にすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。 のコンサートで、出待ちにがいたことがある。 恵は、何か渡さないとと思い、ポケットにあったを手渡したことがある。 浜田自身も記憶に残っていると後世語っている。 半ば頃からコンサート・チケットがプラチナ化しており、毎回発売と同時に完売するほどの人気を誇る。 ほとんどメディアに露出せず、レコード制作とライブ活動だけで人気を維持し続けている稀有な存在といえる。 専用のトラックを早くから持ち、日本で初めてツアーを中心に活動を組立てたミュージシャンである。 の・での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員した。 また同日にはでが行われており、(通称「ハマショウ」)が試合をしていた。 結果はが延長の末2対1で負け、その結果を「ハマショー(浜商)だめだったね…」と電車内などで地元人が言っていたため、これからにて 浜田省吾(ハマショー)のコンサートを見ようとした観客の中には「浜田省吾のコンサートが中止になったのか」と動揺した人もいたという。 のツアーでは、3時間あまりのコンサートでに支障をきたした。 コンサートの期間中、日常生活では、をしていた。 同じくのツアーではで歌っている途中にを落とした。 その時のMCでは「みんなも見るの初めてだろ? 」と返した。 その時いたファンにとっては大サービスだった。 基本的には1会場あたり2,000人規模のホール・ツアーと、1万人規模のアリーナ・ツアーの2つを行う。 回数は少ないが、大規模な野外ライブも開催している。 また、ドーム・コンサートには否定的で、これまで一度も行っていない。 スタジアム・ライブも、にで開催したのみで、それ以来一度も行われていない。 でのコンサートも意外に少なく、の初武道館が1回、その20年後のに2回、計3回しか行っていない。 ただし、「」の武道館公演にとの2回ゲスト出演している。 コンサートでは、客の年齢層を確かめる「年代別チェック」が恒例になっている。 現在は、30代と40代の客が圧倒的に多い。 近年はさらに年齢層が高くなっているが、親子連れも多くなっており、10代の比率も増えている。 親子2代で浜省ファンという人も多く、更には祖父母の代からのファンも存在する。 10歳未満の子供をコンサート会場に連れてきた親には、「のときから聞かせてたんでしょ? 生まれたときにかけてなかった? 」と冗談をいうこともある。 自分で作詞・作曲をしていない曲はコンサートで歌うことはめったにない。 コンサートでの定番曲「」を歌うときは、歌詞の一部をコンサート開催地に変えて歌う。 でコンサートをやるときや、市ではなく町でコンサート をやるときはメロディと歌詞が合わないので困ってしまうとも話している。 ので行う場合、「Hello 宮城グランディ〜」と歌う。 最近は、利府タウンと歌うこともある。 前述の「」だけでなく、自作しているので曲の歌詞を変えて歌うことが多い。 また、「」では「潮風と波の音を枕に ひとり暮らそう」を「潮風と波の音を枕に ふたり暮らそう」と変えたりする。 から始まった「」は、4年間に及ぶ世紀を跨いだ前人未到のロングツアーであった。 、、、野外ライブなどの各会場を織り交ぜた計198公演で、延べ60万人を動員した。 47都道府県すべてでコンサートを行い、奄美大島などキャリア20年以上の中で初めてとなる会場もあった。 にという言葉を最初に掲げた世界初のアーティストである。 に行なったで行なったコンサートでは、館内停電が発生した。 急遽復旧まで、生ギターで数曲演奏するハプニングが発生した。 これはDVDの特典映像で確認できる。 にのでコンサートを行った際、地元の「」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載された。 ステージで早速ネタにされ、「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ! 」と笑いながら語った。 後日、同紙に『あの一言は撤回します。 素晴らしいコンサートでした』との記事が掲載される。 同じく2000年、でのコンサート中、開始2曲目で「脹脛断裂」してしまう。 それでもコンサートはやり遂げた。 このことは、でも採り上げられた。 しかし、この時のニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは20年前にヒットした「」であった。 本人は「このことが一番ショックだった」と語っている。 以降のアリーナツアーでは、必ずセンターステージを作成し、歌うようにしている。 2001年以降のアリーナコンサートでは、アンコールの前に浜田本人の映像が数分流れる。 2001年の場合は浜田本人が楽屋入りするまでの動画、2005年はそのコンサート土地でのエピソードを語る動画、2011年はコンサート当日の1年以上前に撮影された動画である。 コンサートでは、歌詞にあわせて身振り手振りで歌うことが多い。 例えば、「」という歌詞があるところでは手で電話をかける仕草をしたり、「」という歌詞がある部分ではを回す仕草、「こんな気持ちのまま」の歌詞にある「0時になる前に」という歌詞ではを見る仕草をする。 センターステージでは、観客にをするように促す。 「」は、ファンクラブライブ以外の通常ライブでは、必ず歌う曲である。 から行われたコンサート「」では、新曲アルバムのない状態でのコンサートだった。 本人は、コンサート内で、「新曲ができるのを待っていたら60代になってしまうから、それまでにコンサートでみんなに会いたかったため」と発言している。 このツアーのチケットは一般のプレイガイドでは販売されず、すべてツアーサイト上で「ON THE ROADチケットセンター」に登録して購入する独自のシステムが採用された。 チケット販売の種類には先行販売、一般販売、二次販売、直前販売などがある。 会場によっては当日券も販売される。 また、このコンサートでは送付されるチケットには座席番号は印字されておらず、当日まで自分の座席が分からない仕組みになっていた。 会場の入口ゲートにて、専用機器でチケットのバーコードを読み込むことで、座席が印字された紙が手渡され、そこで初めて座席が分かるというもの。 近年はほぼ4年ごとにコンサートを行っているので、「と同じ周期なんで次回のコンサートは4年後です! 」と本人が直接言うことが多い。 実際はに収録され、6年後の発売になった。 コンサートの舞台の袖をいっぱいを使って動いて歌うことが多い。 極稀に歌詞を間違えることもあり、のコンサートでは「」の歌詞「 重ねた唇」を「 束ねた唇」と歌い、最初からやり直したこともある。 2016年のコンサートからステージの左右、中央の3ヶ所に歌詞を表示するモニターを置いている。 メディアに登場しないため意外に思われるが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。 また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。 ほぼ全ての会場で、入り待ちのファンに手を振って応えている。 また、ファンのことを「君たち」などと呼び、決して「おまえら」などのような言葉を使用しない。 (特に)でコンサートを行う際は、MCで笑いを取ろうとする傾向がある。 笑いと気づかない場合は、「今の笑うとこなんだけど…」と自分で言うこともある。 コンサートの後、バンドのメンバーが全員戻って来るまで待ち、皆にお礼を言って握手する。 これはDVDにも録画されており確認することができる。 浜田省吾ソロデビュー40周年記念として、歴代ツアーパンフレットを電子書籍にて完全復刻されることになっている。 ~6日の福岡でのコンサートでは急性声帯炎、急性咽頭喉頭炎の為、延期することになり、本人体調不良での延期は約16年ぶりとなる。 前回はの、4日、5日のである。 次開催の横浜で、キャンセルのことを触れ、「ご承知のように、福岡をキャンセル、延期してしまいました」と言ってから「これがめちゃめちゃ悔しくて」と言う。 月に10本以上やってる若い頃は、そういう事態になっても「頑張ってるからしょうがないと言われたけど、今はやっぱり年だ、と言われる。 その一点だけでも悔しくてやろうと思ったけど」と悔しいを繰り返しつつ「でも、あの時点でやっていたら、多分、今日はなかった。 判断は正しかった」とも話す。 しかし、賞はもうもらっており、リスナーからつけてもらった(浜賞)を大事にこれからも頑張ると笑いをとった。 2018年からは自身の音楽をもう一度見直して、ファンに聞いてもらいたいかつ、若い時に夢中になったビートルズ、カーペンターズのようにもうこの世にいない人の音楽を今聞くこいができないという寂しさから、自身の若い頃の作品をもう一度聞いてもらいたいとうことでファンクラブコンサートを毎年実施している。 2018年は自身の1970年代に作った曲、2019年には1980年前半に作った曲のみで構成されたコンサートとなっている。 このまま行くと2020年には1980年代後半の曲のみ、2021年には1990年前半、2022年には1990年後半、2023年には2000年代と約5年程度ファンクラブコンサートが続くと予想される。 ディスコグラフィー [ ] 詳細は「」を参照 ラジオ [ ]• 月曜深夜担当、1980年1月~9月• 君が人生の時 コンサートツアー [ ] 後半から自身のバックバンドを従えて本格的なツアー活動を開始した。 以降はツアータイトルを「 ON THE ROAD」とし、現在まで引き継がれている。 以降はサブタイトルが付いている。 は毎年のように100本近いツアーを行っていたが、以降は数年毎の間隔を空けるようになっている。 また、ホールツアーとアリーナツアーが分けて組まれるようになり、ステージの規模も巨大化してきている。 不定期ではあるが、ファンクラブ限定のツアーも開催されている。 年度別公演数 [ ] 1970年代 公演数 1980年代 公演数 1990年代 公演数 2000年代 公演数 2010年代 公演数 2020年代 公演数 1980年 96回 1990年 56回 2000年 48回 2010年 0回 2020年 5回 1981年 89回 1991年 54回 2001年 35回 2011年 33回 2021年 0回 1982年 122回 1992年 0回 2002年 2回 2012年 4回 2022年 0回 1983年 119回 1993年 37回 2003年 10回 2013年 18回 2023年 0回 1984年 87回 1994年 58回 2004年 0回 2014年 0回 2024年 0回 1985年 76回 1995年 3回 2005年 26回 2015年 28回 2025年 0回 1976年 18回 1986年 64回 1996年 16回 2006年 28回 2016年 27回 2026年 0回 1977年 50回 1987年 38回 1997年 13回 2007年 55回 2017年 19回 2027年 0回 1978年 53回 1988年 91回 1998年 52回 2008年 0回 2018年 19回 2028年 0回 1979年 70回 1989年 10回 1999年 61回 2009年 15回 2019年 24回 2029年 0回 合計 1729回 ツアータイトル [ ] タイトルが「ON THE ROAD」と名付けられた以降の記録。 期間 公演数 ツアータイトル 備考 〜 142 初めて「ON THE ROAD」のタイトルが付いた。 1年間のツアーとしては過去最多となる142本を記録。 全編ホール・コンサート。 〜 121 個人事務所「」を設立してから最初のツアー。 このツアーの期間中に大規模な野外ライブを「」と「」で開催している。 〜 77 アルバム『』の制作と並行して行われた。 全編ホール・コンサート。 〜 77 の特設野外ライブ2daysからスタートしたツアー。 それ以降はすべてホール・コンサートとなっている。 〜 83 アルバム『』の発売日と同時にスタート。 ツアー名に初めてサブタイトルが付けられた。 また、アリーナ会場()を初めて使用し、連日3時間を超えるステージとなり、非常に規模の大きなツアーとなった。 〜 100 アルバム『』を引っ提げてのツアー。 ホール、アリーナ、野外ライブを織り交ぜた計100公演。 ツアー途中でが終わりを迎える。 〜 83 アルバム『』を引っ提げての約1年半降りとなるホールツアー。 〜 26 ホールツアー終了後に組まれた大規模なアリーナツアー。 これ以降、ホールツアーとアリーナツアーは分けて組まれている。 最終公演の8月10日は「」で野外ライブが開催された。 〜 64 約2年振りのホールツアー。 サブタイトルの7493という数字は「プロデビューが1974年、現在が1993年」という意味で、デビュー20周年を記念するツアーとなった。 〜 34 アルバム『』を引っ提げての、ON THE ROAD '93から続けて行われたアリーナツアー。 のの手術のため一旦中断し、最終公演が1995年の公演にずれ込んだ。 〜 29 アルバム『』を引っ提げての約2年振りのアリーナツアー。 タイトルはの小説から。 冬季のための会場がになっており使用できなかったが、4月に北海道での最終追加公演が開催された。 〜 161 1998年から2001年まで続く前代未聞の4年間のロングツアー。 そのうち2000年までの3年間はホールやライブハウスが中心で、全国47都道府県を回った。 初のファンクラブ限定ライブも開催された。 〜 37 アルバム『』を引っ提げ、4年間のツアーを締めくくった5年ぶりのアリーナツアー。 タイトルは「THE SHOW MUST GO ON」と掛けられた洒落になっている。 このツアーで初めてセンターステージを披露した。 2002年1月に20年振りとなる公演を開催。 4年間で60万人を動員。 〜 26 アルバム『』を引っ提げての約4年振りとなるアリーナツアー。 前回に引き続き、アンコールではセンターステージを披露。 のべ25万人を動員。 〜 83 ソロデビュー30周年を記念した2年間に渡るホールツアー。 ホールツアーとしては6年振りとなる。 デビュー当時の出で立ちで弾き語りを披露するコーナーが設けられた。 のべ15万人を動員。 〜 37 約3年半振りのツアー。 アリーナツアーとしては5年半振りとなる。 を受けて、急遽チャリティー追加公演も開催された。 また震災の影響により仙台公演が2011年7月から翌年5月に延期された。 2012年6月には「ON THE ROAD SPECIAL "The Last Weekend"」と題した、東日本大震災の2回目の復興支援コンサートをにて開催され「"The Last Weekend"」と題したツアーが終了。 のべ35万人を動員。 〜 32 約3年半振りのコンサートツアー。 還暦になって初めてのコンサートツアーであり10年ぶりの新曲を引っさげ行う。 というグループのドラマーとしてデビューして40周年、またソロデビューしてからも40年となるまで続くメモリアルコンサートとなる。 〜 21 約半振りのコンサートツアー。 アリーナ・ツアーとなっており、に発売したアルバムの新曲を引っさげ行う。 ソロデビューしてからも40年となるメモリアルコンサート。 浜田初となる視聴者からの好きな曲のアンケートを事前に行い、その曲が演奏された。 2016年11月5~6日の福岡コンサートでは急性声帯炎、急性咽頭喉頭炎の為、延期することになり、本人体調不良での延期は約16年ぶり。 野外ライブ [ ] 通常のツアーとは別に、大規模な野外ライブを開催することがある。 その際、既存の野外施設ではなく、初めてコンサートで使用される場所が選ばれることが多い 期日 コンサートタイトル 備考 A PLACE IN THE SUN at 初の野外コンサート。 ON THE ROAD '83の春ツアーと秋ツアーの合間に開催された。 A PLACE IN THE SUN at 初のスタジアムコンサート。 ON THE ROAD '83のツアーファイナル。 ・ ON THE ROAD '85 ON THE ROAD '85ツアーのスタートとして2DAYS開催。 A PLACE IN THE SUN at ON THE ROAD '88の春ツアーと秋ツアーの合間に開催された。 ON THE ROAD '91 ON THE ROAD '91のツアーファイナル。 東京公演では野外ライブでは初めての雨天順延となった。 ON THE ROAD 2001 ON THE ROAD 2001 "THE SHOGO MUST GO ON"の沖縄公演。 日本武道館 [ ] 武道館コンサートは、これまでに2回(3公演)開催されている。 期日 コンサートタイトル 備考 愛の世代の前に in 1982 at 武道館 初の武道館コンサート。 アルバム『』発表後に開催され、大方の予想に反してチケットは即日完売。 この日の模様を収めた『』も発売された。 ・ SHOGO HAMADA AT BUDOKAN ON THE ROAD "THE SHOGO MUST GO ON" 前回の武道館コンサートから、ちょうど20年が経ったのを記念して、ON THE ROAD 2001 "THE SHOGO MUST GO ON"の追加公演として2DAYS開催。 ファンクラブ [ ] 唯一の公式ファンクラブは「」(所属事務所と同名)。 にから独立して、新事務所を設立してから発足した。 2014年末現在38,000人を超える会員が在籍している。 男女比は、およそ3:2の割合で女性のほうが多い。 特典 [ ]• 入会すると、入会証とが送られてくる。 2ヵ月に1回(年6回)、会報誌を発行している。 およそ半数のページは浜田へのインタビューで、滅多にメディアに登場しない浜田省吾の貴重な情報源となっている。 また、お正月号では特典グッズが付いている。 2015年現在、200号近く発行されている。 公式のファンクラブ会員限定ページにアクセスできる。 浜田からの動画メッセージや過去の会報バックナンバーなどを閲覧することが出来る。 コンサートツアーが開催された際には、ファンクラブ会員へのチケット先行発売が行われる。 ただし、絶対にチケットが獲れるわけではなく、あくまで抽選である。 イベント [ ] これまでに何度かファンクラブ会員限定のイベントが開催されている。 に初めてファンクラブ限定のコンサートが行われた。 1986年 FIRST MEETING• 1987年 SECOND MEETING• 1989年 3rd MEETING• 1995年 Member's Only Special EVENT• 同じ出身であり、「」の先輩でもある。 プロ・デビューのきっかけを与えてくれた恩人。 には「」をカバーしている。 高校時代からの音楽パートナーで、40年以上の付き合いがある。 浜田作品のほぼ全てにおいてコーラス・アレンジを手掛けている。 浜田がまだ売れていなかった頃にはを務めたりもしており、「彼がいたからここまで来れた」と感謝の気持ちを述べている。 発表のアルバム『』以来、長きにわたって浜田作品のプロデュースを手掛けている。 浜田は「音楽の師」と仰いでいる。 音楽ユニット「」でも共に活動。 元のメンバー。 水谷と同様、数多くの浜田省吾の作品をプロデュースしている。 同期デビューで同学年(山下は生まれ)。 それぞれ音楽性は違うが、互いの音楽を評価し、ファンクラブ誌上での対談やステージ競演も行っている。 プライベートでも渋谷陽一を介して交流がある。 浜田に影響を受けたことを公言していた。 ディレクターも同じのが担当していた。 一時期はにも所属していた。 同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。 自身のラジオ番組などで浜田の楽曲をカバーしたり浜田との対談もしている。 () 同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。 中学時代からマネをして歌っていた。 雑誌での対談やステージ競演も行っている。 若い頃から浜田のファンと公言し 『』初出演時に「」に関わるエピソードを話したことでも知られる。 音楽評論家。 公私に渡って浜田と長い付き合いがある。 グループでマネジメント契約している。 学生の頃から浜田のファンで、にサッカー留学していたときに共通の知人を通じて知り合う。 サッカーに対する真っ直ぐな姿勢に浜田が感銘を受け、日本帰国後も交流を続けている。 浜田が最も敬愛する詩人。 アルバム『』では吉野の詩を引用するなど、多大な影響を受けている。 本人は「本当に素晴らしい詩人だから、影響を受けたっていうとおこがましい」と語っている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 10代の観客に対し「明日学校に行ったら浜省のコンサート最高だったって言うんだよ」と呼びかけるなど• だが、に行われたコンサートツアー『』の公演・2日目(5月20日)では、前列にいた子供が「はましょー」と言った所、「浜省言うな」と笑いながら声をかけたということもある。 当時は予備校だったが、現在は同じ場所での高校になっている。 特に神奈川大学は激しかった。 または• 1990年6月25日付『』から2008年5月12日付『』まで。 集計期間:5月4日〜10日• 竹内のオリジナル・アルバム『』(2014年9月29日付)• 当初は、オリジナル盤の発売日にあわせてに発売予定だったが、制作上の都合により発売日が延期された()。 採用は『』• 採用は「ある日この夏〜TWO WAY SUMMER〜」、浜田のボツ曲は『』に歌詞を変えて「ダンシング・レディ」として収録(251頁)。 春のキャンペーン「ルージュマジック」は、との「」が採用されたが、浜田が用意していたのは「」であった(169-170、233頁)。 「10代の人、手を叩いてみて」というように• 主に、「」や、アルバム『』に収録されている曲が挙げられる。 しかし、の共作で作詞した「」は度々コンサートで披露されることがある。 Hello City〜など。 出典 [ ]• 食卓ON楽. 2007年11月23、30日. の2019年7月6日時点におけるアーカイブ。 2019年7月6日閲覧。 360頁• (Internet Archive)• 11頁• 18-19頁• 9-39頁• 190-192頁• 82頁• 69頁• 28頁• 71頁• 171-174頁• 151頁• 214頁• 79、80頁• 223頁• 232-234頁• 70頁• 402頁• BARKS『』• 253頁• 80頁• 88頁• 475頁• 176頁• 393頁• 2015年4月9日. 2015年5月14日閲覧。 177頁• 61頁• 『J-POP列伝 音楽の中に君がいる』、、2009年、107、108頁• - Amazon. GUEST ROOM BACK NUMBER 2017年5月28日. インタビュアー:クリス・ペプラー. J-WAVE WEBSITE : TOKIO HOT100. 2019年6月28日閲覧。 大道絵里子 2019年3月1日. AERA dot. 朝日新聞出版. 2019年6月28日閲覧。 あいみょんインタビュー 2017年5月2日. インタビュアー:清本千尋. 音楽ナタリー. 2019年7月6日閲覧。 - 2019年1月17日、. ORICON MUSIC オリコン. 2019年2月28日. 2019年6月28日閲覧。 CINRA. NET 株式会社CINRA. 2019年6月12日. 2019年6月28日閲覧。 251頁• 2018年6月24日. の2019年6月12日時点におけるアーカイブ。 2019年7月6日閲覧。 日刊スポーツ、2006年7月25日、24頁• 、、2006年4月15日号、13頁• テレビブロス、2006年4月15日号、13頁• 6-9頁• テレビブロス、2006年4月15日号、13頁• 『田母神流ブレない生き方』• 「田母神流ブレない生き方」、、、2009年8月、45頁• 『グループ魂 はいどもこんばんわぁ!! 』、2006年、77頁• 「」2014年3月17日放送• 、2010年3月4日号、60頁• 237頁• 、11頁• (Internet Archive) 参考文献 [ ]• 『陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー』、1988年。 『Complete Shogo Hamada 浜田省吾事典』、1996年。 『青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡』、1999年。 「804 音楽誌が書かないJポップ批評26」 (2003)• 『ロックは語れない』、1986年。 「」著 ()• 別冊宝島編集部 『音楽誌が書かないJポップ批評26』 〈別冊宝島804〉、2003年6月。 外部リンク [ ]• - チャンネル•

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