パリ ダカール ラリー。 パリ・ダカール・ラリー・スペシャル

三菱 パジェロが残した伝説。パリダカへの挑戦と優勝

パリ ダカール ラリー

略歴 [ ] 社員ラリードライバー [ ] 小学生の頃は、中学生は自転車、高校生はオートバイと「乗り物」に親しみながら育つ。 、大学入学後にを取得し、友人の誘いでとしてラリーに参加し魅力を知る。 その後はドライバーとして頭角を現し、大学3年の時にはの「コルト・モータースポーツクラブ(CMSC)」にスカウトされた。 大学卒業後、に三菱自動車に入社。 販売店のセールスマンや整備工場のメカニックを経験しながら、週末はワークスドライバーとして日本各地のラリー競技会に出場し、1971年、にはに乗りで2年連続シリーズチャンピオンを獲得した。 から海外のに挑戦し、のWRCでは日本人初の6位となり、「 ライトニング・ケンジロー」の異名をとる。 しかし、や排気ガス対策のため三菱が1978年にワークス活動を休止したため、篠塚はラリーから離れ、販売推進部で宣伝を担当するサラリーマンとして働いていた。 世界のラリーでの活躍 [ ] 三菱・パジェロ プロトタイプ(1992年モデル) 三菱は1983年より「世界一過酷なモータースポーツ」といわれる(パリダカ)にで参戦、1985年に初めて総合優勝したが、日本国内における認知度を高めるためには日本人の活躍が必要と判断した。 俳優のと一緒に出場する選手として、当時37歳の篠塚が8年間のブランクを経て競技に復帰することになる。 のパリダカは夏木と共に市販車無改造クラスにディーゼルエンジンのパジェロで初出場し、総合46位(マラソンクラス6位)で完走、この際は「砂漠での最高速は70キロ程度で、ゴールは毎日日付が変わった頃であった」とのこと。 は、より速い車で参戦したいという篠塚の要望により、前年が乗っていた2600ccガソリンターボエンジンを搭載した85年型のプロトタイプ・パジェロをニコンカラーからシチズン夏木カラーへ整備・再塗装したもので参戦。 夏木が監督を務める「チームシチズン夏木」から出場し、三菱ワークスを上回る総合3位を獲得。 その健闘ぶりをがスポーツニュースで報じたことでマスコミに注目され、にフル参戦したと並んで「 パジェロ・篠塚・パリダカ」の名が一般的に浸透した。 は総合2位となり、以後も三菱ワークスのドライバーとして総合優勝争いの前線で走り続けた。 この間のリタイアは1991年のクラッシュと1994年のチーム抗議撤退時のわずか2回のみであった。 には APRC の初代チャンピオンを獲得。 WRCではのコートジボワールラリーでをドライブし日本人ドライバーとしてWRC初優勝を達成し、日本人初の FIA 公認Aシードドライバーとなる。 は同ラリーを連覇。 また、サファリラリーでは1994年・1995年にをドライブし、2年連続2位入賞を果たしている。 (パリダカ改め)ダカール・ラリーでは参戦12年目のに、48歳にして日本人初の総合優勝を成し遂げた。 のダカール・ラリーでは大転倒で腰骨を骨折。 より競技に集中するため家族と共にパリの三菱事業所に赴任したが、のダカール・ラリー総合3位を最後に三菱自動車を退社した。 三菱側は53歳という年齢からマネージメントへの転身を打診したが、本人は現役活動にこだわり、結果として30年間のサラリーマンドライバー生活に終止符を打った。 にはプロドライバーとしてと契約しダカール・ラリーに参戦したが、高速クラッシュで顔面を強打し重体説も流れるほどの大怪我を負う。 2004年・2005年は日産のサテライトチームから参戦したが連続リタイア、日産のワークス活動も2005年で打ち切られる。 2006年は体力の衰えやラリー活動40年を区切りとして引退することを予告し 、初めてプライベーターとして参戦。 車両故障でリタイヤし、ラリー人生に一旦ピリオドを打った。 しかしその後、からラリー用タイヤの開発を目的としてのダカール・ラリー参戦のオファーを受け、イタリアのチームからで出場することになった。 その際、前年の引退表明は「表彰台を狙うような走りで勝負するのは今回が最後」という意味であり、ラリーを引退するつもりはないと語った。 本番では5年ぶりにゴールまで完走した。 を迎えたも出場を予定していたが、テロ予告により大会が中止となった。 南米開催に移行した2009年以降にはダカールラリーへは出場しておらず、2019年のアフリカエコレース参戦までアフリカ大陸のラリー参戦は途絶えることとなる。 三菱ランサーに乗る篠塚(2008年新城ラリー) 2009年夏にはに主催者側スタッフとして参加し、リタイアしたドライバー・ナビゲーター等を収容する「カミオンバレー」の運転を担当した。 それまで篠塚は「トラックを運転した経験はなく、免許もない」ということで大型免許を取得するところからスタートし 、開催期間中はほとんど不眠不休でリタイア者の収容作業にあたることになった。 2010年代はなど国内外のクラシックカーラリーを中心に現役活動を続けている。 2015年よりで行われるにシエラで出場し 、2015年〜2017年に改造車ガソリンクラスで優勝した。 70歳を迎えた2019年、アフリカエコレースで当時唯一の日本人として初参戦し、を操り見事総合34位完走を果たし、市販車無改造ディーゼルクラス2位。 2020年のアフリカエコレースへははじめ複数名の日本人が参戦を表明しており、篠塚がアフリカエコレース日本人参戦の足掛かりを切り招いたといえる。 ソーラーカー・チャレンジ [ ] モントレー2018にて、の0カーをドライブ 2008年の春、母校ののチームの学生が、同年 - にかけて、で開催される公認のソーラーカーラリー「2008 SASC 2008 」へ出場に向けて悪戦苦闘している様子を知った。 このソーラーカーラリーは、アフリカ大陸初の大会となり、全長4,000km超えの世界最長のソーラーカーレースであった。 同大学の教授からの要請もあり特別アドバイザーに就任し、ソーラーカーのドライバーも務め、総合優勝の達成に大きく貢献した。 2009年10月、の? 間の3,000kmを走破する、グローバル・グリーン・チャレンジ(から発展)に、東海大学が製作した新型ソーラーカー「」で出場、2位以下に2時間以上の大差を付けて優勝を飾った。 8kWの高性能ななどが搭載されていた。 6m 2以下という太陽電池面積の新レギュレーション下で、世界最速となる100. 2010年5月23日、がフロントランナーを務める「スマイル・アフリカ・プロジェクト」の「第2回ソトコト・サファリ・マラソン」において、先導車として用意されたソーラーカー「ELA」をドライブ。 7月9 - 11日にかけて群馬県の伊香保温泉で開催されたラリー「スプレンドーレ伊香保」にスパイダーで出場、40位で完走した。 このラリーでは息子の建太がコ・ドライバーを務め、初の親子参戦が実現している。 2010年9月22 - 10月2日、サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ2010に出場する東海大学チャレンジセンターチームに参加し、ソーラーカーTokai Challengerのドライバーを担当する。 総走行距離4061. 8kmを45時間5分で走行して優勝し、同大会で二連覇を達成。 このときの平均速度は90. 2011年10月、オーストラリアで開催されたワールド・ソーラー・チャレンジに、東海大学チームのドライバーとして参戦し、2009年に続き大会二連覇、南アフリカ大会と合わせた国際ソーラーカーレースで4連覇を達成した。 2012年、4年間ドライバーを務めた東海大学チームを離れ、本人が代表を務める「ソーラーカーチーム篠塚」を結成。 東芝、鈴与などがスポンサーとなった。 FIA公認のではオリンピアクラス3位、サソール・ソーラー・チャレンジ・サウスアフリカでは総合2位(アドベンチャークラス優勝)となった。 この南アフリカ大会の模様は、2012年10月27日にで放送され、実子の絲木建太がナレーションを務めた。 2014年8月、のの滑走路にてソーラーカー世界最高速記録を更新。 滑走路往復500m走行を光電管で計測し、8月22日にはギネス公式認定員立会いの下、それまでの世界最高速記録だった88. 8月20日にも91. エピソード [ ]• 1987年のパリダカで総合3位を獲得して2カ月ぶりに帰国した際、空港に大勢の報道陣がいた。 「同じ便に有名人が乗っていたのかな」と思いながらゲートを出ると、自分を目当てにして集まっていたのだと知り驚いたという。 三菱の社員時代はパリダカで有名になってからも特別待遇はなく、成績がよければ報奨は出たものの、概ね普通のサラリーマンと同じ給料をもらっていた。 ラリー出場期間中は「海外出張」扱いで、出張報告書には「車中泊」と記入していた。 自ら会社の広告塔として意欲的に働き、1988年から2002年まで「パリダカ報告会」のため全国のディーラーを回っていた。 1976年、サファリラリーのドキュメンタリー映画の全国キャンペーンツアーに新人歌手だった牧陽子が同行した時に篠塚と知り合い、交際し始めたが1年ほどして別れた。 10年後、ひろ子が芸能界を引退してのでペンション「La VERDURA」の経営を始める頃、からパジェロを薦められたことをきっかけに偶然再会し、1987年に結婚した。 当時パリダカ3位で注目されていた篠塚は「の義姉と結婚する」という芸能ニュースでも有名人になった。 その後、長男の篠塚建太も俳優として芸能界入りしている。 2002年、ダカール・ラリーのゴール地であるの首都に隣接するヨッフ市に「マム・アラッサン・ライ・ド・ヨッフ小学校」を寄贈した。 毎年ラリーの終了後に小学校を訪れ、2007年までサービスカーに積んできた文房具を届けていた。 そして2019年のアフリカエコレースで完走した際も12年ぶりに当地を訪れ清里の地元の人より集まった文房具をマム・アラッサン・ライ・ド・ヨッフ小学校へ寄付している。 モータースポーツでの成績 [ ] ダカール・ラリー 年 チーム 車両 成績 備考 1986 チームシチズン夏木 ゼッケン 344 ライセンスNo. TKS46TE6382 (市販車無改造) AUTO部門46位 1987 チーム三菱シチズン夏木 ゼッケン 309 ライセンスNo. 9133XW95 三菱パジェロ (市販車改造) AUTO部門3位 1988 チーム三菱シチズン夏木 ゼッケン 215 ライセンスNo. 3597YK95 三菱パジェロ (市販車改造) AUTO部門2位 1989 チーム三菱シチズン夏木 ゼッケン 212 ライセンスNo. 8124ZC95 三菱パジェロエッグシェイプエアロタイプ AUTO部門6位 1990 チーム三菱シチズン夏木 ゼッケン 209 ライセンスNo. 8124ZC95 三菱パジェロエッグシェイプエアロタイプ AUTO部門5位 1991 チーム三菱シチズン夏木 三菱パジェロプロトタイプ1型 DNF 1992 チーム三菱シチズンロスマンズ夏木 三菱パジェロプロトタイプ2型 AUTO部門3位 1993 チーム三菱シチズン夏木 三菱パジェロプロトタイプ3型 AUTO部門5位 1994 三菱石油ラリーアート 三菱パジェロプロトタイプ4型 DNF 三菱ワークスの2台のみが完走した難関ステージが、主催者の判断によりキャンセルされたことへの抗議。 篠塚建次郎無敵のno. 1テクニック : WRC優勝ドライバーが鍛える! 市街地走行からWRCのスーパーテクニックまで(、1992年 )• より熱く耐えて挑む 燃える男のすばらしきラリー人生(、1992年 )• 篠塚建次郎のサバイバル流ドラテク専科(、1992年)• (日本文芸社、1994年 )• 風のように パリ・ダカ13万キロ(、1997年 )• ラリーバカ一代(、2006年 ) メディア出演 [ ] 広告・CM出演 [ ]• 「グランZ」()• 「カーナビゲーションシステム」• テレビ出演 [ ]• 第7話• ソーラーカー大陸縦断レース• ハイビジョン特集 疾走3000km〜大陸縦断ソーラーカーレース〜• カナエルチカラ2009 太陽がくれたチャンス• 高橋尚子のスマイルアフリカプロジェクト 一足のシューズが命を守る• ソーラーカー世界最速に挑む〜篠塚建次郎の挑戦〜• 196・2017年4月8日• 503・ 504・2019年7月10日 ラジオ [ ]• 「シノケン・ヒロコのラリーダイアリー」(、1983年から2002年まで) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 魂の仕事人. 人材バンクネット 2007年1月22日. 2017年3月26日閲覧。 よくわかる自動車歴史館 第13話. GAZOO. 2017年3月26日閲覧。 - 三菱自動車工業プレスリリース(2002年06月11日) 2016年4月28日閲覧• 日産モータースポーツ. 2005年12月16日. 2017年3月26日閲覧。 魂の仕事人. 人材バンクネット 2007年1月8日. 2017年3月26日閲覧。 ・2009年8月18日付 モーターExpress• - WEB CARTOP(2015年7月11日)• 東海大学. 2009年11月4日時点のよりアーカイブ。 2017年3月27日閲覧。 シャープ. 2013年12月17日時点のよりアーカイブ。 2017年3月27日閲覧。 シャープ. 2009年6月24日. 東京中日スポーツ・2010年7月12日付 F1Express• シャープ、ニュースリリース• 東海大学ソーラーカーチーム ワールド・ソーラー・チャレンジ参戦• () 2014年9月14日• 篠塚建次郎オフィシャルウェブサイト内 (2014年9月15日 閲覧)• 篠塚 『ラリーバカ一代』、93頁。 篠塚 『ラリーバカ一代』、46-48頁。 篠塚 『ラリーバカ一代』、78-79頁。 - 走れ! オヤジ• 2005年11月22日時点のよりアーカイブ。 2019年7月18日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部サイト [ ]• (篠塚家が経営するペンション)• この項目は、関係者に関連した です。

次の

パリ・ダカール ラリー・スペシャル

パリ ダカール ラリー

1983年、パジェロは初参戦ながら「市販車無改造T1クラス」でクラス優勝 総合順位11位 をはたし、その名を欧州で一躍有名にしました。 翌年には、「市販車改造T2クラス」にステップアップ。 車名をパジェロ エボリューションとして総合優勝を狙いますが、「プロトT3クラス」で参戦したポルシェ911と、レンジローバーの後塵を拝する結果となりました。 ちなみに、このときのポルシェの参戦が、パリダカを耐久性勝負から、スピード勝負へと変革させるきっかけになりました。 1985年は「プロトT3クラス」にステップアップし、ついに総合優勝をはたします。 「市販車無改造クラス」や「マラソンクラス」でも優勝し、パジェロが完全優勝した、記念すべき年となりました。 パジェロの開発に携わったテストドライバーの篠塚建次郎がパリダカに参戦するのは、1986年からで、この年篠塚は「市販車無改造クラス」に参戦し、クラス6位を獲得します。 翌年、篠塚は「市販車無改造クラス」に参戦。 総合3位に入ります。 この活躍をNHKが取り上げたことで、日本国内でも、パジェロとパリダカブームに火が付きました。 その後、三菱はプジョー、シトロエンというフランス勢としのぎを削ることになり、パジェロは、1992年、1993年と連覇に成功するものの、1988-1990年にプジョー、1991年と1994-1996年にはシトロエンが表彰台の頂点に立ちます。 そして1997年、日本人ドライバーとして初めて、篠塚がパリダカで総合優勝を勝ち取り、大きな話題となりました。 増岡浩が2002年と2003年に総合優勝。 この増岡の活躍もあり、パジェロは2001年以降、なんと7連覇という偉業を成し遂げるのです。 しかし、2009年になると会社の経営難を受けてワークスチームを撤退。 パジェロのパリダカでの栄光は、ここで幕を閉じることになりました。 パジェロのパリダカでの総合優勝がもたらしてくれたものは、三菱の名誉だけでなく、日本車が世界に誇れる技術を持つクルマだということを世界に知らしめることができた、という面も大きいでしょう。 現在は、ルノー日産アライアンスの傘下になった三菱自動車ですが、近々パジェロがフルモデルチェンジすると噂されています。 期待して待ちましょう。 ---------------------------------- 文・わんわんエンジニア 某自動車メーカーで30年以上、エンジンの研究開発に携わってきた経験を持ち、古いエンジンはもちろん最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。 EVや燃料電池が普及する一方で、ガソリンエンジンの熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。 夢は、好きなクルマで、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ること。

次の

篠塚建次郎_パリ・ダカールラリー優勝の記録

パリ ダカール ラリー

ダカールラリーとは? ダカールラリーとは、「世界一過酷なモータースポーツ」ともいわれるレースで、砂漠や山岳地帯・ジャングルなど、さまざまな条件の路面を突き進む競技のことです。 数千キロにわたる移動のため、約2週間もの間キャンプをしながらゴールを目指します。 長距離かつ過酷なルート設定で、過去にはドライバーが地雷を踏み亡くなってしまったこともあります。 通称「パリダカ」パリ-ダカール・ラリーは日本で大ブームになった ダカールラリーでよく知られているのが、1979年から始まった「パリ・ダカール」と呼ばれるフランス・パリからセネガル・ダカールまでのコースを走る競技です。 しかし、治安の悪化によりパリからダカールのルートが変更され、2009年からはアルゼンチンやペルーなどの南米で行われており、さらに2020年からはサウジアラビアにて開催されるようになりました。 日本では、1987年に三菱パジェロの改造車がパリダカで活躍したことによってブームとなり、その他ヤマハ・ホンダなどの日本企業も参入しました。 事故に遭うなど完走できない選手も多い中、日本人では篠塚建次郎選手と増岡浩選手が四輪で総合優勝を果たしたり、菅原義正選手が2019年の大会で最多36回連続出場という世界ギネスに認定されたりと活躍しています。 歴史 ダカールラリーの歴史は1978年からスタートしました。 2008年に開催場所の治安悪化によって中止となった他は毎年開催されており、2020年で開催42回を迎えました。 過去には、当時イギリス首相のマーガレット・サッチャーの息子が参加し、競技中に一時行方がわからなくなったこともあります。 日本人も毎年多く参加しており、総合優勝・部門優勝を果たした日本人も多く、連続出場の記録を持つ選手もいるほどです。 2019年のダカールラリーではトラック部門において、日野チーム・スガワラの菅原照仁/羽村勝美組510号車が部門総合9位という結果を残しています。 adobe. com• 久保田勝(くぼたまさる)選手(1982年第4回)• 石原孝仁(いしはらこうじ)選手(1987年第9回)• 浅賀敏則(あさかとしのり)選手(1989年第11回を含む6回)• 篠塚建次郎(しのづかけんじろう)選手(1997年第19回)• 増岡浩(ますおかひろし)選手(2002年第24回・2003年第25回) 日本人でこれまでダカールラリーを制覇したのは上記の選手です。 このうち、篠塚選手・増岡選手は総合優勝、石原選手は改造ディーゼルクラスで優勝、浅賀選手は市販車ディーゼルクラスなどの部門にて6度の優勝、久保田選手はマラソン(現在は廃止)・二輪駆動・バギー・市販車無改造の4クラスにおいて優勝を果たしています。 篠塚選手は三菱自動車の社員でもあり、サラリーマンと選手の二足の草鞋を履く生活をしていました。 増岡選手も篠塚選手と同じく三菱自動車の社員であり、ラリードライバーです。 2002年・2003年のパリダカで日本人初の2連覇を果たしたことで知られています。 注目された名選手 ダカールラリーの最多連続出場25回というギネス記録保持者の菅原義正(すがわらよしまさ)選手は、ダカールラリーにおける日本人を語るうえで外せない選手で、日本人の選手では唯一3部門での出場経験があります。 1983年にダカールラリーに初参加し、2019年の1月に行われたダガールラリーにも参加した菅原選手は、2019年4月にダカールラリーからの引退を発表しました。 また、篠塚健次郎(しのづかけんじろう)選手も有名な選手です。 三菱の社員ドライバーとして多くのダカールラリーに出場した篠塚選手は1983年にパジェロで初参加し、1997年のパリダカでは日本人として初めて総合優勝を果たしています。 ダカールラリー2020結果 現地時間2020年1月6日(月)に行われたダカールラリーの勝負の舞台は、初のサウジアラビアで、走行距離は約7,900キロメートル、休息日をはさむ全13日間のラリーとなりました。 パリ~ダカールやペルー~チリのように、複数の国・地域を駆け抜けていくこれまでのラリーとは違い、今回はサウジアラビア国内のみ。 未知のレースともあって事故により亡くなった方もいるほど非常に困難なレースでしたが、トヨタ・ホンダが大きな結果を残しています。 【トヨタ】総合2位の大健闘 TOYOTA GAZOO Racingのナッサー・アル-アティヤ/マシュー・ボーメル組(トヨタ・ハイラックス300号車)は、首位と10分17秒差の2位で最終ステージに臨み、ステージ優勝を果たしました。 しかし総合結果では、わずか6分21秒差で2位となりました。 参加した4台の合計パンク回数は43回というトラブルが続く中、3台がトップ10という結果のトヨタ。 2連覇は叶わなかったものの、総合2位という輝かしい成績を残しました。 【ホンダ】31年振り、二輪部門総合優勝 ホンダのワークスマシン CRF450 RALLYに乗る、モンスター・エナジー・ホンダ・チームのリッキー・ブラベック選手が二輪車部門の総合優勝を果たしました。 ホンダにとって総合優勝は、1989年以来31年振りの快挙です。 ブラベック選手は今回のダカールラリーで5回目となりますが、総合優勝は自身初、さらに4位・7位にもホンダがランクインしています。 1986年から4連覇したホンダは1990年に参戦をストップし、2013年に復帰しましたが、そこから優勝を獲得することができない状況が続いていました。 しかし今回、31年振り・念願の総合優勝ということで、ホンダにとって非常に大きな勝利をもたらすこととなりました。 adobe. com ダカールラリー2020の総合順位、1位から10位までの結果は以下の通りです。 順位 チーム ドライバー/コ・ドライバー マシン 1位 BAHRAIN JCW X-RAID TEAM カルロス・サインツ/ルーカス・クルス ミニ・ジョン・クーパー・ワークス・バギー 2位 TOYOTA GAZOO Racing ナッサー・アル-アティヤ/マシュー・ボーメル トヨタ・ハイラックス 3位 BAHRAIN JCW X-RAID TEAM ステファン・ペテランセル/パウロ・フィウーザ ミニ・ジョン・クーパー・ワークス・バギー 4位 OVERDRIVE TOYOTA ヤジード・アルラジ/コンスタンティン・ジルソフ トヨタ・ハイラックス 5位 TOYOTA GAZOO Racing ジニエル・ド・ヴィリエール/アレックス・ハロ トヨタ・ハイラックス 6位 X-RAID MINI JCW TEAM オーランド・テラノヴァ/ベルナルド・グレー ジョン・クーパー・ワークス・ラリー 7位 TOYOTA GAZOO Racing ベルンハルト・テン・ブリンク/トム・コルソール トヨタ・ハイラックス 8位 SET RACING マシュー・セラドリ/ファビアン・ルルカン センチュリー・バギー 9位 RACE WORLD TEAM ヤシル・シーイダン/クジミチ・アレクシー ミニ・ジョン・クーパー・ワークス・ラリー 10位 GEELY AUTO SHELL LUBRICANT TEAM ウェイ・ハン/ミン・リャオ ハンウェイ・モータースポーツ.

次の