紫式部 について。 【紫式部の墓所】アクセス・営業時間・料金情報

源氏物語のあらすじを中学生向けに解説。作者の紫式部とは?

紫式部 について

日本の文学の歴史の中でも知名度が非常に高く、なおかつ海外でも高い評価を受けているものに『源氏物語』があります。 主人公光源氏の栄光と苦悩の生涯や恋愛、その子供たちの悲哀がテーマとなっている『源氏物語』ですが、その「源氏物語」の作者が紫式部です。 古典や歴史の教科書に登場する有名な人物である紫式部ですが、紫式部のお墓がどこにあるのかについてを知らないという方も多いのではないでしょうか? そこで今回は、終活に取り組んでいるかたや、歴史や文学に興味のある方向けに、 紫式部のお墓について以下の各ポイントに沿って見ていきましょう。 あわせて、紫式部のお墓の隣で眠る小野篁(たかむら)との関係などについても触れていきます。 まずは、 紫式部という人物や生涯について簡潔に見ていきましょう。 紫式部は 平安時代中期、10世紀から11世紀にかけて活躍した女流作家・歌人です。 紫式部が生まれた家は、藤原氏一族でも学問に通じた家として有名でした。 紫式部は、幼いころから中国の書物に通じていたことから才女として知られていました。 その才能が買われて1006年には当時、非常に大きな権力を握っていた藤原道長の娘で、天皇の后でもあった彰子(しょうし)に教育係として仕えることになりました。 紫式部の代表作である『源氏物語』はこの時期に執筆されたものです。 紫式部の晩年については今でも謎に包まれておりますが、紫式部は彰子に仕えたまま一生を終えたといわれています。 なお、宮廷女官としての時期にほかにも『紫式部日記』を書き、すぐれた短歌も残しています。 紫式部のお墓はどこにある? また、「終活ねっと」のお墓探しでは、著名人が眠る墓地・霊園を探すこともできます。 ぜひご利用ください。 紫式部のお墓はどこにあるのでしょうか? 『源氏物語』の作者であり、優れた女流歌人として有名な紫式部ですが、紫式部のお墓の場所については案外わからないという方も多いと思います。 実は紫式部のお墓は 京都にあり、一般の方でもお参りすることができます。 また 栃木にも紫式部のお墓とされているものが建てられています。 ここでは紫式部のお墓の場所について詳しく見ていきましょう。 紫式部墓所は京都にある 紫式部のお墓は「紫式部墓所」と呼ばれています。 紫式部墓所は京都にあることで有名です。 この場所は、かつては蓮台野と呼ばれ、紫式部が生きた時代にはすでに貴族のための墓地が設けられていました。 さらに、墓所の近くには、紫式部が晩年に住んでいたという大徳寺所属の建物である雲林院がありました。 紫式部の晩年の居住地に近かったこともこの墓地にお墓が建てられた理由の1つですが、より大きな理由としてはこの後に触れる小野篁の関係が挙げられます。 (詳しいことは後述します。 ) 紫式部の墓所の中には、紫式部のお墓や石塔のほかにも、紫式部の功績をたたえる顕彰碑や、紫式部の生涯や功績について解説するための小屋があります。 このため、 紫式部墓所は、紫式部の生涯などについてについて詳しく知るうえではうってつけといえるでしょう。 ちなみに、現在では大手メーカーの島津製作所の紫野工場の敷地内に位置していますが、同社の工場とは区切られた区画となっていることから普通にお参りすることは可能です。 墓所の管理は地元の顕彰会が行っています。 栃木にも紫式部のお墓がある!? 実は紫式部のお墓があるのは京都だけではありません。 紫式部とは一見関係ないように見える、関東地方の 栃木県にも紫式部のお墓があるとされています。 場所は 栃木県下野市の天平の丘公園の敷地内で、凝灰岩でできた五輪塔という形で建てられています。 そして、この公園の所在地一帯が「紫」と呼ばれていることから、朝廷に仕えた一流女流作家である紫式部のお墓ではないかといわれています。 ただし、このお墓そのものの建立年代は不明であることから、実際に紫式部がここに埋葬されたかどうかの真偽すらも謎です。 以下の記事ではたくさんの有名人が眠る多磨霊園について解説しています。 多磨霊園には小説家で有名な江戸川乱歩や政治学者の吉野作造などが眠っています。 紫式部以外の有名人のお墓についても知りたい方は、ぜひ参考にしてみてください。 先ほども触れた、京都にある 紫式部墓所には小野篁のお墓もあります。 このように見てみると、紫式部と小野篁は夫婦もしくは恋人の関係にあったのかと考える人もいるのではないでしょうか? ここでは 紫式部と小野篁のお墓が隣り合っている理由についても見ていきましょう。 小野篁とは 小野篁は 平安時代前期、9世紀前半に活躍した貴族・歌人です。 特に歌人として、優れた漢詩や短歌を多く残した人物です。 その優れた学識は当時の律令の解説書であった「令義解(りょうぎのげ)」の編纂を担当したり、皇太子の教育係を務めるなどでいかんなく発揮されました。 一方で反骨精神が旺盛な性格だったために嵯峨上皇の怒りを買って流罪になったこともありましたが、生涯にわたって天皇から篤く信頼されました。 彼についてはその偉大さからさまざまな伝説や逸話が存在し、中には昼間は官吏として政務に励み、夜は閻魔大王を補佐する役回りを果たしていたとするものもあるほどです。 なぜ小野篁のお墓が隣にあるのか それでは、 なぜ小野篁のお墓が紫式部のお墓と隣り合っているのでしょうか? 小野篁は紫式部の時代より1世紀も前に生きているのでその理由がとても気になりますよね。 これには先ほど触れた、小野篁が夜間に閻魔大王の補佐をしているという伝説の存在が大きく関係しています。 紫式部は『源氏物語』の作者として有名ですが、「源氏物語」の内容によって多くの人々が惑わされたということで、紫式部は死後に地獄に落ちたという風聞が流れました。 そこで『源氏物語』の愛好家たちがこれでは忍びないと考え、すでに建てられていた紫式部のお墓を小野篁のお墓の隣に移動させたうえ、亡き小野篁の執り成しで紫式部の罪を閻魔大王に許してもらうために祈りを捧げました。 そして、その祈りが通じたためか、紫式部が地獄から解放されたという言い伝えがあるためです。 なお、紫式部の墓所は紫式部が亡くなったころから特定の神社や寺院が管理していたわけではありませんが、それは紫式部があらかじめ地獄に落ちるものと考えられていたためとされています。 京都にある紫式部ゆかりの地 優れた才女として活躍した紫式部の生涯を物語る場所は、紫式部の墓所以外にも、京都市中のあちこちに存在します。 京都にある紫式部ゆかりの地を順番に見ていきましょう。 まず、紫式部が生まれ育ったとされる一帯にあるのが 雲林院で、紫式部の墓所の北に位置しています。 ここには紫式部が生まれた際に使った産湯の井戸があるうえ、『源氏物語』の作中でも雲林院が登場します。 また、紫式部が住んでいた邸宅があったとされているのが、京都市上京区にある 廬山寺です。 境内には「源氏の庭」と呼ばれる一角があり、そこには邸宅跡の碑や紫式部が詠んだといわれている歌の歌碑が建てられています。 紫式部が活躍した場所として非常に有名なのが、かつての皇居であった 京都御所です。 皇后であった彰子に仕えた時期、紫式部は教育係として彰子にさまざまな教育を施しました。 最後に 野宮神社は、『源氏物語』の中で光源氏と六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の別れの場面の舞台として有名です。 紫式部のお墓まとめ• 紫式部とは 紫式部は平安時代中期に活躍した女流作家・歌人で、紫式部の代表作として有名なのが『源氏物語』である。 紫式部のお墓はどこにある? 紫式部の墓所は京都市北区にある紫式部墓所で、敷地内には紫式部を埋葬したお墓や石塔、顕彰碑、さらに紫式部の生涯や功績を説明するための小屋が建っている。 栃木にも紫式部のお墓とされているものがあるが、こちらについては真偽のほどは不明である。 紫式部墓所には小野篁のお墓もある 紫式部のお墓の隣には平安時代前期の貴族・歌人の小野篁のお墓が建てられている。 これは、紫式部が死後に地獄に落ちたという風聞を聞いた『源氏物語』の愛読者たちが、閻魔大王の補佐をしていたという小野篁の仲介で紫式部を地獄から解放してもらおうと祈るために紫式部のお墓を移転したことによる。 京都にある紫式部ゆかりの地 京都市中で紫式部の生涯を物語る場所としては、京都御所や雲林院、廬山寺、野宮神社などが挙げられる。 『源氏物語』の作中のさまざまな場面にもこれらの場所が登場する。 平安時代のみならず日本の文学史にも大きな足跡を残した紫式部の墓所が京都市内のひっそりとした場所に建てられていることや、神社や寺院が管理していない理由には深い背景があることがお分かりいただけたのではないでしょうか? 楽しく旅をして余生を送るというのも終活の一環として有意義なことです。 京都に立ち寄った際にはぜひとも紫式部の墓所にも足を運んでみて、紫式部の生涯や足跡に思いをはせてみてはいかがでしょうか。 最後までご覧いただきありがとうございました。 以下の記事ではお墓参りのマナーについて解説しています。 有名人のお墓参りをする際にも参考になる内容となっていますので、ぜひあわせてご覧ください。 カテゴリーから記事を探す• 関連する記事•

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紫式部のお墓はどこにある?小野篁との関係性やゆかりの地も紹介!|終活ねっとのお墓探し

紫式部 について

[生]天延1 973 頃 [没]長和3 1014 頃 平安時代中期の物語作者。 『』の。 であった藤原為時を父として,母は藤原為信の女で早く亡くなり,父の手で育てられた。 長保1 999 年頃年齢の違うと結婚,後のになった大弐三位賢子を産んだが,同3年夫と。 この寡婦時代に『源氏物語』のを開始したと推定される。 2 1005 年あるいは翌3年の年末,一条天皇の中宮に出仕したが,女房生活にはなじめなかったらしい。 その間の事情は『』に詳しい。 その点,とは対照的で,同時代の女流文として,,赤染衛門らとともに対比されることが多い。 40歳余でしたと推定される。 家集『』があり,伝記資料としても重視される。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 平安中期の物語作者,。 の一人。 当時,有数の学者,詩人であった藤原為時の娘として,生まれた。 藤原宣孝に嫁して1女(大弐三位 にのさんみ )を産んだ。 宣孝の死後,召されて一条天皇の中宮彰子に仕え,《白氏文集》のなども行った。 この間に《》を書き,《》,家集《紫式部集》をのこした。 日記や他の資料から,表面はひかえめな,しかし内面に強い自己意識と鋭い批評意識を秘めた人がらがうかがえる。 また,後世,《源氏物語》の作者として,の罪によって地獄に堕ちた,とか,逆に紫式部は観音菩薩の化身であったなどという伝承が生まれた。 平安時代の物語作者,歌人。 『源氏物語』の作者。 父は藤原為時,母は藤原為信の娘。 父の官職であった式部大丞と姓から,当初は藤式部という女房名で呼ばれたが,おそらくは没後,紫式部の名で呼ばれるようになった。 その呼称は『源氏物語』の登場人物である紫上の名によるとする説が有力である。 は不明。 に母を失い,学者,漢詩人であった父のもとで成長。 兄弟の惟規より漢籍の覚えが早く,男子であったらと父を嘆かせた。 長徳2 996 年に越前守となった父の赴任に同行したが,任期途中の同4年に単身帰京し,まもなく遠縁で,数人の妻と子供のいる40歳代の藤原宣孝と結婚,翌年にはのちに大弐三位と呼ばれる娘が生まれたが,長保3 1001 年に夫が急死,その後は寡婦の生活を送った。 『源氏物語』の執はそのころ始まったと考えられる。 おそらく文才を認められ,寛弘2 1005 年ごろ,藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に女房として出仕,同僚たちの視線のなかで,目立つことを恐れて学才を隠しながらも,彰子に『白氏文集』を進講したりした。 道長の妾だったともいうが疑わしい。 『紫式部日記』は,寛弘5年から7年までの彰子の後宮の繁栄を,沈鬱な自己の心をみつめながら記録し,同僚女房への批評などを書簡体で加えた作品だが,そこには,酔った藤原公任から「若紫」という『源氏物語』の登場人物の名で呼びかけられた話や,『源氏物語』を読んだ一条天皇に『日本紀』をよく読んでいると賞賛され,同輩から「日本紀の御局」というあだ名を付けられた話などが記されており,出仕後も書き続けられた『源氏物語』が,そのころすでに男性にまでさかんに読まれていた様子がうかがわれる。 中国文学や伝承を巧妙に利用し,歴史的事実をも踏まえ,それ以前のさまざまな作品の達成を承けてと散文の融合によるすぐれた内面描写の世界を切り開いた『源氏物語』は,それまでの物語の水準を大きく越えた日本文学を代表する作品となり,その影響は日本文化の全領域におよんでいる。 その作者紫式部は,人の心を迷わす罪で地獄に堕ちたといわれながら,一方で観音の化身であったともされ,また儒教的視点から才色兼備の賢女と評されるなど,『源氏物語』とともにその像も後世さまざまに変遷した。 20世紀に入るとウェイリーの英訳などによって『源氏物語』は海外でも高い評価を受け,世界文学の古典とされるに至ったが,紫式部も世界的に著名な作家のひとりとなり,1966年には日本人として初めてユネスコの「偉人年祭表」に加えられた。 『源氏物語』には795首の作中歌がみられるが,このほか,家集『紫式部集』には,幼なじみの女友達との再会と別離を詠んだ「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ」など,娘時代の作者の面影を伝える和歌もみられて興味深い。 『拾遺集』以下の勅撰集に51首が入集。 山本登朗 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 生没年未詳。 平安中期の女流作家。 『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』を著し、『後拾遺 ごしゅうい 和歌集』以下の勅撰 ちょくせん 集に60首近い歌がとられている。 藤原為時 ためとき と為信 ためのぶ 娘との間の次女として生まれ、一族に曽祖父 そうそふ 藤原兼輔 かねすけ 、その従兄定方 さだかた 、祖父雅正 まさただ 、その弟清正 きよただ 、伯父為頼 ためより など優れた歌人をもち、父為時も一流の文人であり、同母兄弟惟規 のぶのり も家集を残している。 兼輔は定方とともに紀貫之 きのつらゆき 、凡河内躬恒 おおしこうちのみつね ら『古今集』歌人たちの庇護 ひご 者であり、醍醐 だいご 天皇親政下の有力貴族であったが、雅正・清正の代以降は受領 ずりょう 層に品定まり、為時に至っては時の帝 みかど (一条天皇)に申文 もうしぶみ を奉ってやっと越前守 えちぜんのかみ の職を得るありさまであった。 紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆き、身の程の口惜しさを思うものが目だつゆえんである。 その「家」は兼輔が建て『大和 やまと 物語』などにその風流ぶりをうたわれた、賀茂 かも 川べりの堤第 つつみてい であった公算が強い。 京都市上京区の廬山寺 ろざんじ あたりがその跡地に相当する。 生年については970年(天禄1)、973年(天延1)、978年(天元1)などの諸説があるが、973年ごろとみるのが妥当であろう。 母を早く失い父の膝下 しっか に育ったようで、その感化のもとに漢籍に親しんで優れた素質を示し、為時をして男子ならぬを嘆かせた。 一方、家に伝わる歌書や物語類をも手当たりしだいに読みあさったらしく、箏 そう の演奏なども伝授を頼まれるほどの腕前であった。 近侍した花山 かざん 天皇の退位(986年6月)とともに職を失い蟄居 ちっきょ する父の傍らで娘盛りを迎えた式部は、読書や友との交流などに心をやりながら過ごしたらしい。 996年(長徳2)夏、国守として越前(福井県)へ向かう為時に同行した式部は、北国の深い雪に驚き1、2年で帰京、998年冬か999年(長保1)初春に藤原宣孝 のぶたか と結婚した。 宣孝は定方の曽孫、式部と縁続きで、為時の上司だったこともあり、磊落 らいらく な人柄であったらしいが、すでに先妻との間に多くの子女があり、なお艶聞 えんぶん が絶えず、式部もその夜離 よが れに悩まねばならなかったようである。 彼女が初婚の相手に20以上も年上と思われる相手を選んだことは注目されるが、この結婚生活は長く続かず、一女賢子 けんし (大弐三位 だいにのさんみ )を残して1001年4月、宣孝が他界し、式部は若き寡婦としてほうり出された。 『源氏物語』はこうした現実の絶望を乗り越える第二の現実として紡ぎ出されたらしい。 1006年(寛弘3)暮れ(5年説も)、一条 いちじょう 天皇中宮彰子 しょうし (藤原道長娘)のもとに出仕したが、その後も物語は書き継がれたらしい。 『紫式部日記』は1008年9月の彰子の皇子出産(後の後 ご 一条天皇)を軸に自己の心境を交えて記したものである。 一条天皇崩御(11年6月)ののちも式部は彰子の傍らにあったが、1014年(長和3)春ごろに没したらしい(1019年以降説もある)。 『紫式部集』は晩年自ら編んだものと思われ、娘時代からの歌詠120首前後を収める。 京都紫野(北区紫野西御所田 ごしょでん 町)に式部の墓と伝えるものがある。 近世になって,晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が発生したが,これは,清少納言自身がひそやかな晩年を送ったという事実と,夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を《枕草子》に書きたてられたことを恨んだが,その日記に清少納言の零落を予言するかのような酷評を残したこととが結合してのことである。 【萩谷 朴】。

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紫式部(むらさきしきぶ)とは

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