ヒトラー の 時代。 【第32回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編

演説テクニックにて民衆を味方につけたアドルフ・ヒトラー

ヒトラー の 時代

中央公論新社から新書『物語オーストリアの歴史』を上梓してからほぼ一ヶ月半が経過した。 私にとって四冊目の単著であるが、今回の本は、オーストリアの歴史を、各州の地方史の視野に降り立ちながら、通史としてもある程度フォローできるようにという大変高いハードルを課されたという意味で、これまでのように、自分の専門領域のストライクゾーンの範囲内で構想し、執筆するパターンとは全く違った作業だった。 そして、ウィーン文化史を専門とする私にとって、地方史の細部を掘り起こすのは、気が遠くなるような根気を要しもした。 これらの事情で、気がつけば14年もの年月をこの仕事につぎ込むことになってしまった。 このように飛び抜けて苦労が多い仕事だったわけだが、終わってみて、これまでの単著ほどの達成感は感じることができずにいる。 さらに出版後1週間ほどで、むしろどうしようもない恐れと悲しみの感情に取り憑かれた。 原因は、インターネットである。 幸いにも と言っていいのだろうと思う 、『物語オーストリアの歴史』には、出版直後からamazonで好意的なレヴューがつき始めた。 ただし、それらのレヴューの多くには、書き手の見識を疑わせるような棘が確実に仕込まれていた。 とか、「『弱冠18歳』という用法は間違いだ。 『弱冠』は『礼記』で20歳のことをいうので、これは誤用。 ノリで言葉を使うな! もとは『礼記』の「二十を弱と曰いて冠す」からきた言葉だけど、現代語では一般に年が若いことを指すために用いられていますよ! とか、しまいには「調べたことを全部書きました、という本。 という暴言まで。 ひとつの世界観を形にした書物という商品が、コーヒーメーカーや猫のトイレと何の変わりもなく星で評価されることに、なんともいえないやるせなさを感じた。 同時にツィッターでも、本の中で、「オスマン帝国」とせず、あえて「オスマントルコ」という表記をしたために、「オスマントルコとかって、今どき女子大生かよ? 」と食いつかれた。 なので、TL上ではこのあたりを説明させてもらった。 この段階で、心理的にはかなり疲弊しきっていた。 自分の本が、ワクワクした読書の楽しみをもって人々の手に取られているという感覚が全くない。 むしろ、市場に出た途端に心ない人びとの手で公開処刑されるかのような恐ればかりが湧いてきた。 この「オスマントルコ」のようなツィートが炎上したら、という不安から定期的にエゴサーチもするのだが、これが精神的にさらに良くなかった。 そうこうしているうちに、中公新書では七月の新刊が発売された。 その中に、池内紀さんによる『ヒトラーの時代』があった。 ツィッターをご覧の方は、おそらくこの本について多少は目にされているのではないだろうか。 池内さんは著名なドイツ文学者で、カフカやギュンター・グラスの翻訳でも知られている。 ただ、文学研究者ゆえ、一次史料を見るわけもなく、どちらかといえばエッセイ的な著作になることは、刊行前から私ですらある程度予想はついていた。 ところが、蓋を開けてみると状況はさらに酷いものだったようだ。 ヒトラーが「ナチス」を自称したという事実誤認にはじまって 「ナチス」はのち時代による蔑称 、年代、人名表記、雑誌タイトルなど、ウィキペディアで探しても見つかるレベルの誤りが満載である。 恐ろしかったのは、発売後一日経つか経たないかのうちに、ツィッターのドイツ現代史クラスタで爆発的な炎上が始まったことだ。 最初のきっかけは、このクラスタにいる高名なドイツ現代史研究者、特にナチス期を専門とする先生方が「この本はひどい」とジャッジし、すぐにウェブ上で誤記訂正を始めたことだった。 そして、その後はツィッターのお定まりの展開で、匿名アカウントがガンガン尻馬に乗って行き、ついに「池内紀『ヒトラーの時代』がひどいらしい」というTogetterまでできるほどの騒ぎになっている。 この経過を、実に複雑な思いを抱いて眺めていた。 最初にツィッター上でこの本の正当性に警鐘を鳴らし、誤記訂正を始めたドイツ史研究者の良心には、強く共感する。 大学の教員である限りは、メジャーな新書レーベルでとんでもない間違った内容の本が広く流布したとなると、学生への影響が気になるし、当然、卒論指導などにも支障が出るだろう。 専門家としての義務感からこのような発言と作業をされたことは疑う余地もない。 ただ、ほんの数日のうちに、この方たちは正誤表を仕上げて中央公論新社に送付したという話で、このことには実に我が目を疑った。 たまたま中央公論新社で直近に新書を作ってみての感想なのだが、こちらの会社の校閲は、これまで他社では経験したことがないほどハイレベルだった。 校閲部には外国語を解する専門家が控えていて、私の原稿についても、ドイツ語のウェブレキシコンのようなものまできっちりチェックして、年代や、人物のファーストネームなど、当然起こりうるケアレスミスを徹底的に洗い出してくれた。 同社の校閲部Fさんには、いまも深い感謝の気持ちを抱いている。 では、そんな中公新書で、なぜ池内さんの本を巡ってこのようなことが起こったのか。 考えうる答えは一つしかない。 著者である池内さんが校閲を拒否したからであろう。 差別的な表現などを除いていえば、校閲者が「間違いです」「これはこうした方がいいです」といったところで、著者が承諾しなければ勝手に直すことはできない。 そしてこのことは、実は、本を作るという営みの本質に関わることでもあるということを強調しておきたい。 著者が原稿を書く。 その内容を出版社がチェックして好き勝手に修正する。 こんなことがまかり通れば、それは容易に検閲や発禁処分という、言論・出版の自由を決定的に損なう方向に進んでいくだろう。 ドイツ現代史の先生方の研究者としての良心と正義感には敬意を表したいが、もしも修正要求をするのであれば、それは出版社ではなく、著者の池内さんに向けてするべきだと思う。 池内紀さんには、2000年前後にウィーン関係の展覧会準備作業などで何度かお目にかかったことがある。 とても優しく温厚な人柄を感じたが、他方、彼の翻訳を担当した編集者から伝え聞いたところによると、ご自身の文体や、原稿については、ある意味確固たる独自の美学のようなものを強く抱いておられ、明らかな間違いであっても、指摘や修正要求には頑として応じず、ときには編集者に土下座させるような場面もあったらしい。 人づての話でしかないが、もし事実だとすれば、今回の騒動に無関係ではないだろう。 この炎上は止むところを知らず、結局は、ご子息でイスラム研究者の池内恵さんまでが、父・池内紀の仕事に関して連続ツィートするという事態に発展している。 このツィートが本当に胸に響いた。 父への思いや微かな反発など、いろいろな心の襞がそこには読み取れるのであるが、特に、父である池内紀がインターネットにいっさい手を触れたことはなく このことは、かつて同氏による翻訳、ギュンター・グラス『蟹の横歩き』で、ネット上の「チャット」を「チャート」と訳されていたことからある程度予想はついていた 、テレビさえも持たなかったこと、あの世代の研究者が、一生に何度か海外を訪れ、そのときに仕入れた情報を糧に生涯研究を組み立てていくのが常態だったこと、そのような仕事の「世代差」が確実に存在することを示唆しているのが、直接でないにしろ、問題の本質に触れていると思った。 現在、日本の外国研究者は、年に何回も現地に出かけ、最新の文献情報をアップデートし、現地の学会とも足並みを揃えるのが当然とされている。 しかし、それにどんな意味があるのか、と、池内恵さんは疑問を投げかける。 現地の学会の最前線は、本当にそれほど意味があるのか。 実際、人文研究が欧米でもそれほど理想的な環境にあるとはいえないいま、ヨーロッパの学会のトレンドにしても、本当に重要な問題を緻密に洗い出していくというよりは、例えばボローニャシステムとの関連で予算が取りやすいとか、そのような動機に左右される部分も当然多いのだ。 そんななかで、日本人研究者が西欧研究を手がけるとき、あえて最前線が捨て置いた分野を拾い直すことにもそれなりの意味がある、という指摘は実に正しいと思った。 そして、池内紀さんのお仕事も、もともとは、ドイツ文学の中で王道とは言い難い分野を拾い上げ、日本に紹介したことに大きな意味があると言えるだろう。 いま、オーストリアと日本の修好150周年でにわかにウィーンブームが訪れているが、もともと日本で「世紀末ウィーン」という概念を掘り起こしたのが池内紀であったことも忘れずにおきたい。 誤解しないでいただきたいのだが、間違いだらけの池内本を擁護するつもりは全くない。 いい加減な本が多数、世にはばかれば、特定のテーマについて間違った情報が広く受容されることになる。 その意味でいえば、文化史の分野でも、ハプスブルク家の肖像画を「怖い絵」と同じ価値観でくくってしまったかのベストセラーなどは、いま思っても罪は大きいと思う。 専門家でない人が軽く書いた本が、専門書を凌駕してスタンダードとして読まれる状況は危険だし、今回の批判をスタートしたドイツ史研究者が抱いた最大の危惧も、おそらくはこの点にあるのだと思う。 しかし、SNSというツールを通してのディスカッションが危険なのは、アカウントさえ持っていれば、誰しもが、これらの専門家、研究者と同レベルで発言できるという点である。 もう今回は気持ちが翳りながらもめちゃくちゃに気になって関連ツィートをほぼフォローしていたのだが、匿名のアカウントから、ほとんど暴言、人格否定とも言えるようなツィートも目立った。 著者としては、専門家や真剣な読者から寄せられた指摘には真摯に向き合わなくてはならないと思うが、しかし、これら、ツィッターを発散手段にしているような人々の暴言にまで、書物の著者は耐えなければならないのだろうか。 その点にはただ深い疑問しか感じない。 ツィッターをあまり好まないため、どういう感情レベルで「つぶやく」のか、その心境すらよくわからないのだが、思ったことを全部言葉にする、それも140字で、というシステムは、扇情的な言葉遣いが良識を駆逐するような部分があるように思われてならない。 文章を書くとき、脈略やつながり、前後の状況を考えて組み立てていくのが普通だが、浮かんだアイデアや感情をそのまま文字で呟いて公開してしまうことで、それを読んだ人がどのように受け取るかまでは考えられていないような気がするのだ。 人間のレアな感情はそもそも他人の目からすればある意味ショッキングな部分を含むだろうし、それをじかに不特定多数に向かって発信してしまうのは、あまり健全だとは思えない。 もちろん、こうした考え方がもはや古いということを承知した上の感想に過ぎないのだが。 いずれにしても、こうした発話とコミュニケーションが主流になった現在、書物を書く営みにおいて、少なくとも私のような古い世代の書き手のがわで、「書く」喜びが著しく目減りしてしまっていることはたしかなことであろう。 そもそも『物語オーストリアの歴史』を執筆しているときに、もうこれがおそらく自分にとって最後の本になるかもしれない、という感覚はあったのだが、また本を作ろう、という前向きな感情は、書きあがったいまも、現在のところ全く湧いてこない。

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独裁者ヒトラーの時代を生きる 演説に魅入られた人びとと「つまずき石」

ヒトラー の 時代

ヒトラーの時代の知識 ヒトラーやナチスに関する本や情報は世の中に無数に出回っています。 あとがきには本書の執筆理由が以下の通り語られています。 しがない泡沫政党の党首だった男が、急テンポに国民の人気をつかみ、みるまに権力の座を駆け上がった。 その理由を知りたい。 まさに一夜にして独裁者に成り上がり、またたくまに独裁制を完成させた。 その秘密を知りたい。 (P257) 1889年オーストリア生まれのヒトラーが、ワイマール共和国の元首ヒンデンブルク大統領からの指名で合法的に首相に就任したのが1933年1月30日。 敗戦濃厚となりベルリンの指令地下室で自殺したのが1945年4月30日。 享年55歳。 ヒトラーが権力の中枢にいたのは12年と3カ月間です。 本書ではヒトラーが政治家デビューし、独裁者として人気絶頂にあった1925年から1938年頃の約15年間に焦点を当て、テーマ別に書かれています。 独裁者の台頭を許した時代背景 フランス革命がナポレオンの登場を促したように、ヒトラーの台頭は、第一次世界大戦のドイツの敗北及び屈辱の戦後状況と不可欠です。 当時の時代背景を理解しておかないと、残虐で極端で危険な思想を持つナチスをドイツ国民が支持した理由が掴めません。 ナチスは形の上では合法的に成立した政権です。 当時のドイツは、賠償金負担とハイパーインフレの進行で瀕死の状態にあり、救世主を求める空気が充満していたと想像します。 亡国の危機にあったドイツ経済を矢継ぎ早の施策で立て直し、ドイツの尊厳を取り戻してくれるという期待を高めた。 もしも最初の4年間で政権をおりていれば、ヒトラーは名宰相としてドイツ史にその名を刻んだことは間違いないと言われています。 このことは、歴史的事実として受け止める必要がありそうです。 巧みな報道と宣伝戦略で、業績が過大に誇張されている可能性はあるにせよです。 苦しくなるほどの残虐さ とはいえ、ナチスがアーリア人種以外の民族に行った差別政策や虐殺行為、粛清政策には、おぞましいものがあります。 人間として、なぜにそこまで非道になれてしまうのか、心底恐怖を感じます。 歴史が第二次世界大戦に勝利した連合国寄りに操作されている可能性はあります。 それでも、多くの人が同意するように ヒトラーやナチス政権は人類にとって間違った政策を行っていた集団だったと感じます。 排除され、否定されるべき存在だったと感じます。 当時からナチスの残忍性、暴力性に疑念や嫌悪を抱いて人も多数いたと思います。 それでも時代を覆う同調圧力への恐怖は強力で、感覚が麻痺した状態から抜け出せなかったのかもしれません。 当時の被支配層の人々の心理状態に同情せざるを得ません。 あの時代を学び続けたい 現代の状況は、約100年前の1900年代前半に酷似していると感じています。 歴史は繰り返すし、これから先も災難は起こり続けると覚悟しています。 その為にも1900年代前半に、世界で何が起こっていたのかは学び続ける努力をしたいと思っています。 当時のヒトラーやナチスが政権奪取や民衆支配の為に用いていた手法は、テクノロジーの進化で形を変えたとはいえ、現代でも確実に活きています。

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ヒトラーとはどんな人物だったのか?狂気の独裁者が残した逸話と予言

ヒトラー の 時代

ヒトラーの青春時代 アドルフ=ヒトラーは1889年、オーストリアに生まれた。 父は役人であったが、アドルフは私生児だった。 その青年期は挫折の連続で、ウィーンの実業学校は中途でやめ、画家を志して美術学校の入試を受けたが失敗した。 Episode ヒトラーの美大受験失敗 ヒトラーは18歳だった1907年、ウィーンの造形美術大学を受験した。 一緒に受験したのは113人であった。 まず二日間の構図試験に合格しなければならない。 両日ともそれぞれ4つの課題から二つずつ選び、午前と午後各三時間の間に描かなければならない。 課題は「楽園追放」とか「カインとアベル」といった聖書の場面である。 この二日間の試験で33人が合格、ヒトラーは合格した。 合格者は次に試験の前に描いておいた自分の作品を提出して実力を検査してもらう「作品試験」を受ける。 ヒトラーは自信を持って作品を提出したが、結果は不合格であった。 作品試験の絵に人間の頭部を描いたものが少なかったから、と大学の記録に残っている。 結局合格したのは二人だけだったから、かなり難しい試験だったといえる。 大学の学長に面会を求めて落第の原因を聞いたところ、「君は建築科の方が向いているのではないか」と言われた。 彼が普段から描いていた絵は事実、建物が多く、人物は少なかった。 <村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』1977 中公新書 p. 113> ウィーンからミュンヘンへ ヒトラーが鬱々とした生活を送っていたの都は、民族問題のもっとも先鋭的なところであり、当時はドイツ系の民族主義運動が台頭し、ハンガリー人やチェコ人との対立、そして経済や文化で優位なユダヤ人に対する反発が強まっていた。 ドイツ民族主義、に強く影響を受けたのもウィーンにおいてであった。 彼はオーストリア帝国の徴兵を忌避し、1913年にドイツのミュンヘンに移住する。 第一次世界大戦が起きるとドイツ兵として陸軍入隊、4年間前線で戦い鉄十字章を授与された。 毒ガス傷病兵として後方の野戦病院で終戦を迎えたのが30歳の時だった。 極右政党に参加 1919年6月、が締結され、の社会民主党政府はそれを受け入れた。 右派は屈辱的な条約は押しつけられたものであると反発し盛んに宣伝した。 戦争から復員したヒトラーは、1919年9月、軍司令部から与えられた任務としてミュンヘンの小さな極右の政党だったドイツ労働者党の活動を観察するために参加、まもなくその指導的役割を演じることになった。 翌20年2月、ビアホール、ホーフブロイハウスの演説で大衆を催眠にかける演説の才能に自ら気づき、運動にのめり込んでいく。 そこで彼はドイツの敗戦と共産主義革命の失敗という混乱の中で、反共産主義とドイツ国家の再建という確固たる使命感を得たようだ。 共産党の指導者の多くがユダヤ人であったところからヒトラーはユダヤ人に対する伝統的な反感を巧みに煽る戦術をとった。 ナチ党党首となる 1920年3月、この小さな政党は(ナチ党)と改称し、21年7月、ヒトラーは党の独裁権を付与された指導者(党首)となった。 しかしこの頃のヒトラーは、たくさんいる極右活動家の一人、「ミュンヘンの太鼓たたき」としてしか見られていなかった。 ミュンヘン一揆 ヒトラーが明確に国家権力をめざすことになるきっかけは、むしろフランスが与えた。 1923年11月、フランス・ベルギー軍のとそれによって始まったインフレの進行とでドイツは動揺し、政府に対する左右両派からの批判が強まった。 そのような情勢を後期としたヒトラーは、共和国政府の打倒を図り、軍事政権を樹立しようとして将軍ルーデンドルフを担ぎ出し、を起こした。 しかし国防軍や官僚の反対に遭って失敗し、ヒトラーは投獄された。 その間、獄中で記述したのが、であった。 その中でヒトラーはヴェルサイユ体制の打破と、、共産主義の危機を訴え、ゲルマン民族の優越性を強調して、第一次世界大戦の敗戦で自信を喪失していたドイツ人の民族心理に訴えた。 ヒトラーの周辺には、レーム、、、など、同じような不満分子が集まり、ナチ党の中核を形成していった。 NewS ヒトラーの生家、警察署に オーストリアのドイツとの国境に近いブラウナウには、ヒトラーの生まれた家が残っている。 生家が入る建物は三階建てで、1970年代からオーストリア内務省が借りる形で福祉施設などに利用されてきたが、2011年以降は空き家になっていた。 政府はヒトラーの生家をどう利用するか頭を悩ませていたが、2019年11月19日、内務省は建物を改装して警察署として使うことを決めたと発表した。 ナチス信奉者など極右勢力によって「聖地」とされることを避けるためで、年内に改装案を選ぶ建築コンペを始めるという。 大統領は、1933年1月30日、議会第一党の党首であるヒトラーを首相に任命しが成立した。 こうしてヒトラーは政権を獲得したが、同じ年の3月、アメリカ合衆国では大統領がを開始した。 権力の掌握 1933年に首相に任命されると総選挙を布告して、2月にをでっちあげてを非合法化し、選挙ではナチ党が288議席を占めて反対派を押さえ込み、ヒトラーに4年間の全権委任を認めるを成立させた。 続いて労働組合の解散、共産主義やユダヤ人の著作の焚書、ナチ党以外の政党の禁止を立て続けに実施して独裁体制を確立させた。 1934年8月、ヒンデンブルク大統領の死によってヒトラーはに就任、国家元首として全権を握った。 ここに議会制民主主義のは完全に終わりとなった。 8月19月には国民投票が行われ、ヒトラーの国家元首就任は承認されたが、それでも429万票の否認票があった。 しかし、外交面ではヴェルサイユ体制の打破をかかげ、10月にと軍縮会議を脱退するという孤立化にもかかわらず、ザール地方の復帰や英仏に再軍備を黙認させるなどの外交上の華々しい成功を収めると、国民は圧倒的な支持をヒトラーに与えるようになった。 このヒトラーによる独裁国家はといい、一般には、 ドイツ第三帝国とも言われる。 その体制は、国内には巧妙な大衆宣伝で人心を捉える一方、・などを通じた軍事警察機構を強化し、言論・政治活動の自由を奪う全体主義、軍国主義の色彩の強い、体制といえるものであった。 (イタリアのファシズムとはかなり異なる点はあるが。 ) 1933年の国民的高揚と強制的同質化 1933年3月5日の国会選挙から同年夏までのドイツでは、当時の人々が「国民的高揚」または「国家社会主義(ナチス)革命」と呼んだ、完全な雰囲気の転換があった。 「国民的高揚」は、一つはここに至る数年間の政治的に不確実な状態に対する倦怠と民主主義からの救済と解放をもたらす、秩序と確固たる意志を有する指導者を望んだことと、一つはかつてのような君主政治や貴族政治は望まなかったことの二つの根を持っている。 そこにヒトラーが登場したことは、広汎な国民に次のような信念が形成された。 「今は、偉大な時代、国民が再び統一され、ついに国民の神の使い、民衆の中からよみがえった指導者を見つけた時代である。 彼は、規律と秩序のために尽力し、全国民の力を統合し、ドイツ帝国を新しく、偉大な時代へと導くであろう、と。 」 <ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p. 219> このような雰囲気のおかげでヒトラーは、政界全体を無抵抗なうちにかたづけ、もはやヒトラーの意志に抵抗できないような状況を導入できたのだった。 1933年春から夏のはじめ、「国民的高揚」と重なって、もう一つの異常な出来事である「強制的同質化」が進められた。 それは政党以外の組織体である労働組合、大工業団体や大利益団体からごく小さな団体まで、指導部が入れ替えられ、国民社会主義の運動と行動を共にするように強制されたことである。 それと共に多くの人がナチ党に参加しようと殺到した。 その多くの「三月の投降者たち」は国家社会主義者ではなく、単に出生しようとした人たちだった。 <ハフナー同上 p. 217-220> ヒトラーはナチス=ドイツの支配の正当性をドイツ民族の「純潔」をユダヤ人などの「汚れた血」から守ることにあると訴えた。 1935年、ヒトラーの意を受けた国会はを成立させ、ユダヤ人との通婚禁止、公職就任の禁止などを定め、を押し進める法的整備を行った。 <ノイマン/岡本友孝他訳『ビヒモス』1963 みすず書房、ダヴィド/長谷川公昭訳『ヒトラーとナチズム』文庫クセジュ 1971> ヒトラーの成功 1934年から1938年にかけて、ヒトラー・ナチス政権は三つの大成功を収め、ドイツ国民の圧倒的支持をえることとなった。 完全雇用の回復 ヒトラーのもとで国立銀行(ライヒスバンク)総裁、さらに帝国経済大臣となったシャハトは、国内経済を外国から厳しく隔絶することによって、インフレ作用を起こすことなく経済繁栄を実現させた。 の建設に代表される公共事業によって雇用を回復し、それ以前のデフレ政策に比べて、予想外の経済の好転をもたらした。 こうしてヒトラーは完全雇用を実現したが、その実態は軍備拡張による軍需工業と徴兵制によってもたらされたのだった。 国民の多くも戦争の危険よりも経済の好転を望んだのだった。 再軍備、軍拡の成功 ヒトラーはに対する挑戦を開始、で軍事の平等を主張し、徴兵制を復活させてを強行した。 これはそれまでヒトラーに対して懐疑的であった国防軍の将校団にとって、昇級欲と栄誉心を満足させるチャンスとなり、ヒトラーに対する服従心を増大させた。 ヒトラーはドイツの生存権拡大にとって戦争は不可欠と考えていたが、国民に対しては「戦争のための軍備ではない。 ヴェルサイユ体制という不当な仕打ちからドイツの主権を回復させるに過ぎない」と再軍備の正当性を訴えた。 また軍隊の増大は巨大な失業対策としても民衆の支持を受けた。 外交の成功 ヴェルサイユ体制打破を掲げたヒトラーは、1933年にはし、35年にはを宣言し、さらに1936年にはとを無視してを実行した。 これはフランス・イギリスの反撃が想定され、全面的世界戦争に突入する危険があったため、外務官僚や国防軍幹部はその準備ができていないとして強く反対した。 しかし、ヒトラーはフランス・イギリスも戦争に踏み切る決断はできないと判断して、反対を押し切って進駐を強行した。 事実フランス軍は、進駐したドイツ軍を過大に見積もり、反撃しなかった。 これはヒトラーが神がかり的な勇気のある指導者であるというイメージを作り上げ、「ヒトラー神話」ができあがることとなった。 この間、東方に対しては、の返還とに対するでの通行の自由を認めるよう圧力をかけた。 ヒトラー政権を支えた暴力装置 ナチ党が反対党(特に共産党)を暴力的に排除するための装置として、初期からの盟友であったエルンスト=レームが実権を握るがあったが、突撃隊と国防軍が対立する中で、ヒトラーは権力維持には国防軍が不可欠と考え、自己の統制に服さない傾向のある突撃隊の排除をはかり、1934年6月30日、レームをはじめとする突撃隊幹部を殺害し抹殺した。 同時にヒトラーに対抗する存在はほぼ根こそぎこのときに殺害され、このによってヒトラーの独裁体制は確立した。 その後は、エルンスト=ヒムラーの指揮するとの掌握する国家秘密警察()がヒトラー体制の暴力装置として、法や裁判などの手続きを経ずに反ナチ、反ヒトラーの動きを封ずるようになった。 反ヒトラーの動き 国際連盟からの脱退は国民投票にもかけられたが、95%のドイツ国民が賛成した。 ヴェルサイユ体制=国際連盟のもとで、自衛権などのドイツの権利が不当に奪われているヒトラーの主張は、国民に圧倒的に支持された。 それに続くヒトラーの外交上の成功は、国内におけるナチスの人権侵害や自由の制限、ユダヤ人排除などに疑問を持っていた多くの国民も、ヒトラーにドイツの未来を任せることに同意した結果となった。 しかし、ヒトラーの独裁政治やそれを支えるナチス=ドイツのイデオロギーにすべてのドイツ人が無抵抗であったのではなかった。 社会民主党や共産党の活動は禁止されたので地下に潜って活動せざるをえなかったが、そのほかにも、があったことは忘れてはならない。 官僚や軍人のなかにも同調しない者もかなりおり、カトリック教会はナチスがドイツ人の精神をも支配しようとしていることは神を唯一の真理とする信仰の立場から反発があった。 またに組織された若者の中にも、自由や他国の文化を否定するナチスに反発を感じる者もあった。 しかし反ヒトラーの動きはゲシュタポなどの密告社会のなかで芽を摘まれ、まとまった声にはならなかった。 結果としてヒトラーのドイツ支配は1945年5月まで12年間続いた。 枢軸の形成 ヒトラーの成功は、国内では官僚、軍部などそれまでヒトラーを軽視していた勢力を完全に従属させ、抵抗勢力が無くなったことを意味していた。 さらにを結んでイギリスに再軍備を認めさせると、これらはヒトラーの天才的な外交手腕として宣伝されたが、ヒトラーの力と言うより、イギリス・フランスのによるという側面が強かった。 1936年7月にはのとともに、内閣に対するの反乱を軍事的に支援し、介入した。 このはヒトラードイツにとっては再軍備後の軍の訓練の意味をもっていた。 またそれを機に、それまでオーストリアをめぐって対立関係にあったイタリアと若いし、提携を深めてを形成した。 さらに同じくファシズム体制をとる日本との間で、共産主義=コミンテルンに対する共同防衛を建前としたを締結、翌年それはイタリアを加えて三国防共協定に発展した。 これらも華々しいヒトラー外交の成功として受け止められ、ドイツ国内におけるその権威と権力は絶対的なものになった。 Episode ヒトラー・ジョーク ナチ時代、庶民は密かにヒトラー・ジョークを作って憂さを晴らしていた。 ヒトラー・ジョークの一つ。 引用 ナチ政権成立後、まもなくヒトラーがある精神病院を訪ねた。 患者たちはかたまって整列させられ、長い訓練を経てまことに見事に、いっせいに手をあげて<ドイツ式敬礼>を行った。 しかし、ヒトラーは、まだ二、三人の腕が敬礼のためにあげられていないのを見とがめて、「どうして敬礼しないのか」と尋ねた。 彼の受け答え。 「総統! 私たちは看護人であります。 気が狂っているのではありません」。 <宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』2002 岩波新書 p. 138> 同書には、ほかにもたくさんヒトラー・ジョークが紹介されている。 また、ナチス時代の歴史教育などにも触れている好著である。 生存圏の確保をかかげた侵略路線 1937年11月5日、ヒトラーはベルリンの総統官邸に以下の軍の最高幹部、国防相、外相などを招集しナチス=ドイツの秘密会議を開催した。 そこでヒトラーは、自分の発言は遺言と見做されてよい重要なものであると前置きして、ヨーロッパ大陸において「生存圏」を獲得する必要、とくにオーストリア及びチェコスロヴァキアを占領する必要を論じ、将来、1943年以後は軍事情勢がドイツに不利になる見透しを述べ、対外膨張の行動を急ぐ必要があると力説した。 軍首脳とフォン=ノイラート外相はイギリス・フランスの反対が想定されるので危惧を抱いたが、ヒトラーはこの両国は有効な反対はしないという見透しの下にオーストリア・チェコスロヴァキア占領計画をたて、大国が介入しないうちに電撃戦で事態を有利に収拾できる目算をたてた。 <斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p. 1938年3月、ヒトラーは国境にドイツ軍を終結してオーストリア政府を威嚇し、を実現した。 これは、オーストリア出身のヒトラーがかねて目標として掲げていたドイツ民族の統一国家を実現したものとして、圧倒的な支持を受けた。 さらにヒトラーはチェコスロヴァキア領のがドイツ人居住者が多いことを理由に、その割譲をチェコスロヴァキアに要求した。 チェコスロヴァキアは当然拒否したが、ヒトラーは「民族自決」の原則を掲げて国際問題化し、イギリス・フランス・イタリアとの四国首脳会談の開催に持ち込み、イギリス首相のを引き出して、ズデーテン割譲を容認させた。 チェンバレンはヒトラーの領土要求はこれで終わるだろうと期待したが、ヒトラーは次いでチェコスロヴァキアの分裂を誘い、ソロヴァキアの独立を認める一方、ベーメン、メーレンを保護領として、一挙にしてしまった。 国内では、1938年11月、ナチスは全土で反ユダヤ人の暴動を扇動しの惨劇を引き起こし、国民の目をへとそらし、の独裁体制を強めていった。 第二次世界大戦 ヒトラーのドイツはついで、に対しの併合との鉄道建設、自由通過を要求した。 ポーランドはそれを拒否、イギリスは今度はドイツがポーランドを侵攻した場合はポーランドを支援すると表明した。 独ソ不可侵条約 しかしヒトラーは、1939年にのとの間で8月23日にを締結した。 ヒトラーの最終的な戦争目的はソ連の共産主義を倒し、ドイツ人の東方生存圏を拡大することであったが、ここでは当面の戦略としてスターリンに提携を申し込んだのだった。 ミュンヘン会談などの経緯にイギリスの反ソ姿勢を見抜いていたスターリンも、当面のドイツとの戦争を避ける必要を感じ、その働きかけに同意したのだった。 これは、「悪魔の結婚」などと言われて世界を驚かせた。 ドイツとソ連の提携に衝撃を受けたイギリスは8月25日、 イギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスも同調し、軍事支援を約束した。 ポーランド侵攻 独ソ不可侵条約を締結したた上で、1939年9月、ヒトラーはを開始、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告してついにが始まった。 ドイツ軍は電撃戦を展開してワルシャワを占領、同時にソ連もを実行し、こうして独ソ両国でポーランドを分割した。 しかし、イギリス・フランスはポーランドとの相互援助条約があるにもかからず、陸上ではドイツ軍を攻撃せず、ポーランドへの援軍も送らなかった。 宣戦布告した国同士が戦わないという「」といわれる状態となったのは、双方がポーランドを犠牲にして早期講和の機会を探っていたからであった。 フランス制圧・イギリス上陸失敗 しかし、ヒトラーは東部戦線で勝利を収めると自信を強め、ついに1940年4月から西部方面でも侵攻を開始、6月にはさせた。 この大勝利でヒトラーの権威は最高潮に達した。 ひき続きヒトラーはイギリス上陸作戦を実行するため激しい空爆を加えたが、首相に代わったイギリスが空爆にたえ、この「バトルオブブリテン」でドイツ軍は制空権を得られず、上陸が出来なかった。 この間イタリアもドイツに同調して参戦し、アジアではアメリカとの対立が深刻になっていた日本がドイツ・イタリアに近づき40年9月を締結した。 ユダヤ人問題の最終解決 ナチス=ドイツは権力掌握直後からユダヤ人と反政府活動者を収容するためにを作っていたが、第二次世界大戦開始に伴い、占領地から送られる多数のユダヤ人が送られてくるようになると、ヒトラー・ナチス政権はユダヤ人に対する絶滅方針を固め、ドイツ国内及びドイツ占領地域のユダヤ人を収容し、殺害する絶滅収容所としてなどを建設した。 こうしてユダヤ人問題の最終解決と称して、ガス室によるが1940年頃から本格化した。 独ソ戦に突入 1941年、ヒトラーは方向を転じて、を開始、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻、を開始した。 これはヒトラーの念願であったドイツ人の生存圏を東方に客体することと共産主義国家を絶滅すること掲げた戦争であった。 奇襲を受けて後退したロシア軍であったが、ドイツ軍にとっても広大な戦線で戦うこととなり、苦戦に陥ることとなった。 しかも同年12月、ドイツの同盟国日本が真珠湾を攻撃してが始まると、アメリカとも互いに宣戦布告して戦争状態となった。 米英首脳はすでに8月にでファシズムとの戦いで共同戦線を組むことを表明しており、枢軸国と連合国という二陣営による世界大戦という構図が明確となった。 連合軍の反撃 ドイツ軍は、1943年2月、の包囲戦に敗北したことを機に後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられることとなった。 早くも43年7月にはし、44年6月に連合国軍が、ドイツ軍は次第に追いつめられていった。 ドイツ国内でもヒトラーを排除して、連合国との交渉を行うため、1944年7月20日に軍人によるが実行されたが、奇跡的にヒトラーは難を逃れた。 ドイツ国内ではミュンヘンの大学生ショル姉妹による白バラ抵抗運動などの反ナチは反国家活動として徹底的に取り締まられた。 ヒトラー自殺 1945年4月30日、ベルリンの総統地下要塞で自殺し、死体は焼却された。 ナチス=ドイツは崩壊し、5月7日、無条件降伏した。 の末期、1945年4月には西からはアイゼンハウアーの指揮する米英を主体とする連合軍、東からはジューコフの指揮するソ連軍がそれぞれベルリンを目指して進撃し、の敗北は濃厚となった。 しかし降伏を拒否したはベルリンの首相官邸に設けられた総統地下要塞に立てこもり、なおも抗戦の指示を出し続けていた。 ベルリンを脱出した総統後継者や、勝手にイギリスと和平交渉を行おうとした指導者ヒムラーはヒトラーの怒りを買い、それぞれ解任された。 側近に裏切られたヒトラーは次第に精神の平静を失い、恐怖にさいなまれるようになり、国防軍にベルリン救援を求めたが、もはや動員出来る部隊は存在していなかった。 4月28日にはがパルチザンに捕らえられて逆さ吊りにされたことが伝えられ、激しい衝撃を受けた。 ヒトラーは29日の真夜中、愛人のエヴァ=ブラウンと地下壕の一室で結婚式を行い正式な夫婦となった。 それは死を決意していたからであり、翌30日早朝、二人は拳銃で自殺、二人の死体は遺言どおり裏庭でガソリンがかけられ焼却された。 そのころすでにベルリンに侵入していたソ連軍は首相官邸に近づいていた。 ヒトラーから後継首相に指名されたは、ソ連軍の降伏要求を拒否、5月1日、交渉を打ち切り妻マクダと6人の子供を道連れに自殺した。 ベルリン防衛地区司令官ヴァイトリング中将がソ連軍と交渉して抵抗中止を決定、午後に首相官邸はソ連軍に占領されたが、ヒトラーの死体は確認出来なかった。 <ヨアヒム=フェスト/鈴木直訳『ヒトラー 最後の12日間』2005 岩波書店> 印 刷 印刷画面へ 書籍案内 村瀬興雄 『アドルフ=ヒトラー』 1977 中公新書 セバスチャン・ハフナー/赤羽竜夫訳 『ヒトラーとは何か』 1979 草思社 宮田光雄 『ナチ・ドイツと言語 -ヒトラー演説から民衆の悪夢まで-』 2002 岩波新書 スナイダー/永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』 1970 角川文庫 ノイマン/岡本友孝他訳『ビヒモス ナチズムの構造と実際-1933~1944』 1963 みすず書房 ダヴィド/長谷川公昭訳 『ヒトラーとナチズム』 1971 文庫クセジュ ヨアヒム=フェスト /鈴木直訳 『ヒトラー最後の12日間』 2005 岩波書店 Amazon Video 案内 O.ヒルシュビーゲル監督 『ヒトラー最後の12日間』 ブルーノ・ガンツ主演.

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